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/2 Boy Has Determined (後編)
「……そうと決まれば、もう少し詳しく説明してもらわないとな。出来たら、この左腕のこととかもっと教えてくれると嬉しいんだけど」
手を放して、
戦うと決めたまではいいが、今の真弥ではなんの力にもなれない。このままでは足手纏い以外の何物でもないだろう。《
だから、この力を知るのは、
この力の使い方を知って、せめて自分の身くらいは自分で守れるようにならなくてはならない。誰かを護りたいというのは、今の真弥には分不相応な願いでしかなかった。
何かを否定したければ、それに相応しい力がなくてはならない。
――力が、欲しい。自分の身を守れる力が。アルトを護れる力が。この左腕がその力をくれるっていうんなら、それを手に入れてやる――。
力を手に入れること。それが、《
「教えてくれ、と言われても……。具体的には、何を説明すればいいのでしょうか? 残念ながら、〈
申し訳なさそうに胸の前で指を絡み合わせて、アルティエは小さく俯いた。
「ああ、別にいいって。訊きたいのは……そうだな、たとえばさっき言ってた図形のこととかわかるか?」
「図形、ですか。わたしが知っているのは西洋魔術の五大元素――地水火風に空を加えた各属性の象徴くらいだということを、予め断っておきます。一例として、タットワと呼ばれる概念の場合、地には黄の四角形、水には銀の三日月、火には赤い三角形、風には空色の円。空には藍色の楕円がそれぞれ対応しています」
「他にも五芒星を空と捉えたり、同じ五芒星でも五大元素を包括しているとする流派もある。三角形の向きや内部に引いた線、あるいは複数の図形を組み合わせることで様々な属性を対応させたり、ということもあるようだがね」
「……かつては、生命という概念そのものや空間、時間といった要素を操ることの出来る魔法陣さえ操る魔術師がいたとも聞きますが、詳しくはわたしも知りません。彼らは、得てして神代――遙か古代の魔術師であったそうですから」
「生命って概念そのものやら空間……か。そりゃまた、随分とデタラメだな……」
時間を操るというのは、タイムマシンみたいなことも出来るということなのだろうか。それには少しだけ興味があったが、真弥は意識を本来向けるべき場所に注ぎ直した。
――地には四角形、水には三日月、火には三角形、風には円、空には楕円……。
アルティエの口にした言葉を、脳内で反芻する。
「オーケー、よくわかった。お陰で、自分の力がどんな力なのか、少しだけ見えた気がする」
思った通りだ――真弥は左手の甲に視線を落とした。
四角、三日月、三角、円、楕円。そこには、五つの図形全てが刻まれている。
まだまだわからないことだらけだが、五つの属性を使えるというのは一つの強みだろう。ゲームや漫画の中とは違う現実だが、魔術にも複数の属性があるからには、相性というものもあるはずだからだ。
「それで、この刻印の力ってどうやったら使えるんだ?」
「知りません」
「……へ?」
アルティエはコンマ一秒の間さえ置かずに答えた。
「わ、悪い。よく聞こえなかった。もう一回言ってくれるか?」
聞き間違いであって欲しい――微かな希望を胸に真弥はもう一度訊ねてみるが、
「知らない、と言ったのです。申し訳ありませんが……。わたしには、〈
聞き間違いではなかったらしい。アルティエは「知らない」と断言した。こうもはっきりと言われると、いっそ清々しい気にもなる。なるのだが――。
「し、知らないってっ! それじゃ意味ないじゃねえかっ!」
刻印の力に喜んだばかりだというのに。これではぬか喜びだ。
「し、仕方ないでしょう……! わたしは魔術師ではないのですから! ただでさえ
「あれは無我夢中だったんだって!」
「そのときの感覚を思い出せばいいのです!」
「無茶言うな!?」
お互い、まだ暗い早朝だというのに、声を張り上げ合う。
まるで
「――く……。は、ははは……!」
堪えきれずに、思い切り笑い出してしまった。
「な――何故笑うのですか、シンヤ! 説明を求めますっ」
勢い良く椅子から立ち上がり、ばんっ、とテーブルを叩いて、アルティエは眉を吊り上げる。正に怒り心頭、怒髪天を衝くといった様相だ。押し潰されてしまいそうなほどの威圧感を全身に漂わせているのだが、にもかかわらず、その怒り方は、ぷんぷん、という擬音があまりにも似合っていた。まるで、ぷんぷんという擬音が今のアルティエのためにあるのではないかとさえ思えてくるような可愛らしさを漂わせているものだから、余計におかしかった。
「く、くく、くくく……。まさかルナハイトがこうしてるとは……くく……」
「く、クリストファまで!」
レーニルは怒りに満ちたアルティエの視線を一身に受けながらも、より大きく肩を震わせるばかりだった。
「だ、だってさ……」目尻に浮かんだ涙を拭いながら、真弥は答える。「アルトって、そうやって怒るイメージなかったもんでさ。く、くく……ほ、ほら。アルトって本で読んだ騎士ってイメージがぴったりだったんだよ。いつでも落ち着いてて、凛としてるっていうか。だから、おかしくってさ。いや、貴重なもん見せてもらったかも。……うん、ああいうのも可愛くって面白いかも」
「な――」
突如としてアルティエが硬直した。
毒気を抜かれたように呆然とした表情。ふるふると小刻みに唇が震えている。それがまたおかしくて、真弥は再び喉を鳴らして笑い始めた。
「シ、シンヤ! だから何故笑うのですかあなたという人はっ!」
がぁーっ、とアルティエが怒り始める。迫力は満点なのだが、どうしても顔がにやけてしまう。「悪い悪い」と謝りながらも、真弥は笑い続けていた。
怒っているのか拗ねているのか、いまいち判断に困る表情で、アルティエは真弥を睨み付けてくる。こうしていると、年相応の女の子にしか見えないのだが、やはりアルティエは騎士なのだろう。この迫力や張り詰めた雰囲気、凛とした立ち姿がそれを物語っている。
「……そういえば、帰りが遅いようでしたが。何かあったのですか、シンヤ」
謝り倒すこと数分。やっとのことで許しをもらうと、どこか未だに不機嫌そうな様子で、アルティエが訊ねてきた。
「ああ……ちょっと友達に連れ回されてた。時間潰すの手伝えって言われてさ」
唇を紅茶で湿らせて、内心の笑いを隠しながら真弥は答えた。
丁度カップの中が空になったので、ティーポットに残った最後の紅茶を注ぐ。既に紅茶は微温くなっていた。
「そうですか……。それならば良いのですが」
妙に安心したように、アルティエは吐息した。
昨日の今日だから、心配してくれているのだろう。先程も真弥の無事を喜んでいたようだし。
――やばいって思ったヤツには会ったけど、別に害は――
「――あ……」
どうして、今まで忘れていたのか。あの女のことを。あの魔性の瞳を。
「シンヤ? どうかしたのかい?」
レーニルが不思議そうに訊ねてくる。それに頷きを返して、真弥は残った紅茶を一気に呷った。微温い液体が喉を滑り落ちていって、肺一杯に強い香りが満ちていく。湿った唇を舌でなぞって、真弥は答えた。
「二人に、聞いて欲しいことがあるんだ」
自然、声のトーンは低くなっていた。
それだけで、これからするのがただの世間話ではないと感じ取ってくれたのか、二人の表情が、纏った雰囲気が一変した。一人の少女と一人の男のそれから、白の《
「……今日、
真弥の言葉に、身構えていたにもかかわらず、二人は息を呑んだ。
「誰か、というのは……? いえ、それは確かに黒軍だったのですか?」
「ああ、間違いない」頷いて、真弥は続ける。「アレはグレインと――黒の《
思い出すだけでも、寒気がする。全身が総毛立つ嫌な感覚が蘇ってくる。
あの赤い瞳は、人間ではあり得ない、魔性の瞳だ。あの色は、あまりにも血を連想させる。
「間違いないと見て良さそうだな……。シンヤ、その女性の居所は――いや、わかるはずがないか。そこまで行っていたら、君は今頃殺されているはずだ」
「――いや、知ってる」
何、とレーニルは驚呼の声を零した。
確かに彼の言う通り、あの女を追い掛けていれば真弥は殺されていただろう。尾行の仕方など真弥にはわからないし、たとえ知っていたとしても、あの女がそれに気付かぬはずがない。だが、そんなことをする必要などそもそもなかったのだ。
あの女がどこに現れるのかなど、疾うに知っているのだから。
「多分だけど、俺の友達の家にいると思う。今はいないかもしれないけど、きっとその内そこに現れる。……あの女は、その友達のお兄さんの、恋人らしいから――」
それが、気懸かりと言えば気懸かりだった。
あの女はグレインと共にいて、間違いなく真弥を見ていた。グレインと共にいた時点で、真弥のことを知らないはずはない。そして、朋彦のことも知っているはずだ。さらに、今日、朋彦と共にいるところを見られてしまった。
ならば、それを利用しない手はない。
今の時点では、真弥にはなんの力もない。それでも、《
それほどの力が自分に宿っているという自覚は、真弥にはまだない。
だが、彼らは違う。真弥の――《
ならば、その力を使えなくするか、自分たちの側へ引き込もうとするだろう。
鳴瀧真弥に
――もし朋彦を殺すと言われたら。もしかすると、俺は……。
ぎり、と奥歯を噛み締める。
それは、してはならない仮定だった。たとえ仮定であったとしても、許されるはずのないイフの可能性だ。アルティエたちと共に戦うと決めた時点で、鳴瀧真弥には絶対に許されないはずの仮定だった。
「……まずい、だろうな。やはり」顎に手をやってレーニル。「彼らには無関係の一般人を巻き込まないというルールがない。いや、極力それは避けるだろうし、無意味な殺戮を行うといったことはないだろうが……。いざとなれば、その手を汚すことも躊躇わないだろう」
「それはつまり、シンヤの友人が狙われる可能性があるということですか、クリストファ」
その通りだ、とレーニルは頷き、「それ以上に」と小さく付け足して真弥を見た。
そこで言葉を句切り、言い淀む。その続きを言っていいものかどうか逡巡しているような、曖昧な表情。それだけで、真弥にはわかった。彼が何を言おうとしているのかということが。
「――それ以上に、俺が二人を裏切るかもしれない、って?」
「な――」
アルティエの顔に驚駭が広がる。それに対し、レーニルは小さく頷くのみだった。
その可能性をレーニルが考えるのは当然のことだった。真弥でさえ考えたのだから、彼がその可能性を考慮せずにいられるはずがないのだ。
レーニルは俯き、口許に自嘲するかのような薄い笑みを浮かべ、口を開いた。
「シンヤ、君は一般人だ。いい意味でも、悪い意味でも。我々にも一般人を巻き込まないという暗黙の
それは良くも悪くも尊い感情なのだけれどね、と最後に付け足して、レーニルは真弥に視線を戻した。
アルティエは驚いたように目を見開き、二人を交互に見やっている。
「――親友が死ぬのなんて、二度と御免だ……」
レーニルの言葉に色好い言葉を返すことは、真弥には出来なかった。けれど、自分の気持ちを偽ることも、その想いを胸の奥に押し込めることも、真弥には決して出来なかった。
丁度二年前。一人の少年が、誤ってコンビニ強盗に殺された。新聞の片隅にしか載らず、ワイドショーで取り上げられるようなこともない、小さな事件。けれど、その事件は、真弥にとってはあまりにも大きすぎる出来事だった。
真弥たちから、
それを、思い出して。ごろり、と真弥の胸の奥で黒い感情が渦巻いた。
激しすぎる憤怒は、嘔吐感にも似ていた。腑が煮えくりかえるとはよく言ったものだった。胃をひっくり返してぐちゃぐちゃに掻き混ぜられているかのような感覚さえ覚える。
二年前という過去でさえそうなのだ。
もし今度また、朋彦が、あるいは文が殺されたならば。今度こそ、真弥は発狂しかねない。
自分の近しい人、大切な誰かの命が奪われるなど、もう二度と御免だった。そんな理不尽を許せるはずがない。それこそ、鳴瀧真弥が最も許容出来ぬものの原点なのだから。
けれど同時に、
「――でも。アルトたちを裏切るのだって、絶対に御免だ……」
アルティエたちと共に戦うと決めた。だから、二人を裏切ることなんて、絶対に出来ない。絶対にしたくない。
吐露するような真弥の言葉に対し、ふう、と溜息を吐いて、レーニルは口許を吊り上げた。
「随分と矛盾したことを言うのだな、君は。……いや、だからこその《
くく、とあまりにも似合わない仕草で、レーニルは喉を鳴らした。
レーニルの言う通り、真弥の言動は明らかに矛盾していた。朋彦や文を人質に取られれば、真弥はほぼ確実に二人を裏切ることとなるだろう。だが、二人を裏切ることもしたくない。まるで子供のわがままのように、真弥の願いは矛盾している。
だが、それでも尚、真弥はその意思を曲げようとは思わなかった。
足手纏いでしかなかった真弥を、身を挺して、命を懸けてまで庇ってくれたアルティエに応えるためにも、二人を裏切ることは決して出来なかった。
「もし朋彦を人質に取られたとしても、朋彦を助けて、二人を裏切らないで済む方法だって、きっとあると思う。――ないって言うんなら、作ってやる」
それだけが、鳴瀧真弥に出来ることなのだから。
「――俺は《
それはただの希望であり願いでしかないけれど。はっきりと、真弥はそう口にした。
二人の顔色を窺ってみると、アルティエは目を見開き、レーニルは口を半開きにしている。どちらも、驚きと呆れが入り混じった表情を浮かべていた。
馬鹿なことを言っていると思う。そんなことは百も承知だ。
――それでも。
アルティエの言った通り、この左腕に神様の決めた
「……レーニルさん。レーニルさんは、
アルティエは知らないようだが、あるいは、という希望を込めて訊ねた。
一秒でも早く、真弥はこの力を自分のものにしなくてはならない。
今の真弥では、二人の力になるなど夢のまた夢だ。なんの力もないのでは、巻き込まれただけの一般人とそう大差ない。たとえ、盤面の上の《
だが、一度戦うと決めたからには、戦わなくてはならない。戦えるようにならなくてはならない。
――せめて、昨日の力を自由に使うことだけでも出来たら……。そうすれば、他の属性だってきっと使えるようになるのに……。
グレインの顔を灼いた、灼熱の焔。あの焔の力を思いのままに使えるようになれば、アルティエたちと肩を並べて戦うことが出来る。鳴瀧真弥を《
「……いいだろう――と言いたいところだが、わたしは
「そう、ですか……」
アルティエも言っていた。
たとえ魔術師であっても、一介の魔術師では理解出来ないのだという。
つまり、鳴瀧真弥は今後も足手纏いのままということだった。
「だが」
レーニルが強い語調でそう言ったのは、正に真弥が肩を落としかけたときだった。
はっとして真弥は顔を上げる。
「我々門外漢ではわからない。――ならば、
「クリストファ、まさか――」
「――ああ。そのまさかさ、ルナハイト」アルティエに頷き、レーニルは真弥に向かって言った。「シンヤ、君を我らが《
「《
――《
レーニルは立ち上がり、真弥の目を見て言った。
「付いて来るかい?」
「――ああ」
迷うことなく、真弥は頷いていた。
人気のない夜道を、三人で歩く。
まだ八時にもなっていないが、真冬の空は深く暗く、街灯の明かりに照らされていながらも尚仄暗い夜道は、アルティエと初めて出会ったあの夜を思い起こさせた。
ふと、真弥は脇道へと視線を投げ掛けた。
路地裏は、やはりどこも暗い闇に包まれている。ぽっかりと口を開けた漆黒は、踏み込めば二度と戻ってこられない、異界の入り口を思わせる。それがくだらない想像であることはわかっていたが、グレイン・エルダーという男と二度に渡って対峙した真弥にとって、それはあながち間違いとは言えなかった。
着込んだジャケットのお陰で風は防げているが、隙間から入り込む冷気は防げず、刺すような冷気が真弥の肌を撫でた。手袋をはめた両手をズボンのポケットにねじ込んで、小さく吐息する。ミルク色の靄が、ゆっくりと風に融けていく。
真弥の服装は、昨日のそれと大差ないものだった。白いシャツ、ベージュのセーター、安物の黒いダウンジャケット、黒いジーンズ、二つの三角が絡み合ったペンダント。身に着けているものこそ違うが、色などは出来るだけ昨日と同じにしてある。その方が、もしものときに魔術を使える可能性が高いと思ったからだ。
「レーニルさん、一体どこ行くつもりなんだ?」
前を歩くレーニルの背に問い掛ける。カツカツと編み上げブーツを鳴らしながら歩くレーニルは、「どこだと思う?」と振り返らずに返してきた。
それは、真弥にとっては予想通りの答えだった。
何故なら、この質問はこれでもう三度目だったからだ。三度目の正直という言葉は当てにならず、どうやら二度あることは三度ある、の方がこの場合は正しかったらしい。
もう三十分ほども歩いているのだから、そろそろ教えてくれてもいいのではないか。
「アルトはどこに行くのか知ってるんだろ?」
レーニルは白の《
だが、アルティエは「いいえ」と言って首を横に振った。
「わたしは、《
すみません、とアルティエは僅かに俯いた。
「ってことは、アルトはグレインとかを探すために先陣を切ってたんじゃなくて、俺を探してたから一人だったのか」
この戦いがチェスと同じだと言うのであれば、多くて総勢三十二人――いや、《
大都市ではないとはいえ、街一つといえばかなりの広さになるし、人口もそれなりの数に上る。その中から十六人を探し出そうと思えば、走り回って情報を掻き集めるしかない。そういったことに便利な魔術というものもあるかもしれないが、情報収集の基本は足だろう。
ならば、アルティエの行動は闇雲であったかもしれないが、この戦争において先陣を切るという意味では、彼女のそれは間違ってはいなかった。
事実、彼女は真っ先に真弥を見つけ出したのだから。
「こちらとしては、もう少し自分の身を大事にしてもらいたいところなのだけれどね」
茶化すようなレーニルの言葉に、アルティエはさらに俯いた。
やがて、もう三十分ほど歩いた頃だった。「ここだ」と言ってレーニルが足を止めた。
そこは、とある高層ビルの前。地方都市の開発事業の目玉として打ち立てられた、超高層ビルの建築現場だった。
「ここって、まだ工事中じゃ……」
ビルの入り口には、でかでかと「立ち入り禁止」と書かれた看板が鎮座している。デフォルメされたヘルメットをかぶった男がぺこりとお辞儀をしているお決まりの絵も、この暗さの中では、ある種の不気味さを放っていた。
夜闇の中、真っ直ぐに月へと向かってそびえ立つビルの先端は、夜空に融け込んでいて、はっきりと見て取ることは出来ない。見上げていると、首が痛くなってくる。
視線を元に戻してみると、蛍光テープが巻き付いた赤いパイロンが幾つか並んでいて、立ち入ろうとする者をやんわりと威嚇していた。この入り口以外は、大きな鉄板とフェンスでぐるりと囲まれていて、中の様子が見えるのはここだけだ。
朋彦によれば、こういった場所はアウトローたちにとっては絶好の溜まり場となるそうだが、軽く覗いた限りではそういった類の人影は見られず、ひっそりと静まり返っていた。それが余計に不気味さを引き立てている。
どう考えても、人がいるようには思えなかった。
いや、それ以前の問題だ。
――このビルの空気は、あの路地裏に似ている。
外観こそ似ても似付かないが、ひしひしと肌に感じる、刺すような雰囲気がそっくりなのだ。
だからだろう、このビルには人が寄り付こうとしないのだ。工事途中なのだから、それは夜だけのことなのかもしれないが、夜の間ここに近付こうとする者はいない。人間の生存本能、あるいは危機を回避しようとする直感が、ここは危険だと告げている。
このビルへの侵入は、たとえるなら、夜の密林を歩き回るようなものだろう。
お誂え向きに、ビルの建設に使われる幾つもの重機が、まるで鉄で出来た獣のように横たわっている。一歩足を踏み入れれば、途端にエンジンが掛かって襲い掛かってきそうだ。
――いや、そもそもこういうトコに無断で入るのって不法侵入なんだけどさ。
あれで犯罪はしない朋彦を差し置いて犯罪者にはなりたくなかった。
「さあ、入ろう」
しかし、真弥の逡巡をよそに、レーニルは看板の脇を擦り抜け、当然のように工事現場の中へと入っていく。
どうしたものかとアルティエに視線を向けてみれば、彼女もまた、当然のようにパイロンの間に渡された黄色と黒のバーを跨いでいた。
この二人に、自分の不法侵入を咎める良心ってのはないんだろうか――そう考えて、真弥は溜息混じりに
「シンヤ?」
どうかしましたか、とアルティエが振り返った。
なんでもない、と答えて真弥は歩き出した。彼の悩みをアルティエが理解してくれるとは思えなかった。何しろ、今もコートの下に長剣を携えているのだから。
改めて、真弥は彼女たちとの間にある常識の乖離を認識することとなった。
二人の後に続いて、真弥は工事現場へと足を踏み入れた。
――その、瞬間だった。
何か、得体の知れない不快感に、全身がざわついた。
肌の上を、毒々しい色彩の毛虫が這い回っているような感覚。あるいは、裏返しになった肌を羽毛でなぞられているような感じ。
全身を、耐えがたいほどにおぞましい不快感と、辺り一面を焦がした砂糖で囲まれたような甘ったるい空気が、包み込んでいた。
「……アル、ト。なんだよ、これ――」
引きつった声で、真弥は訊ねた。口中に溜まった唾液が気持ち悪い。
だが、アルティエは何も感じていないかのように平然としていた。
――おかしい。
こんな、胃の腑がひっくり返るほどの嘔吐感を催さずにはいられない空気の中で、アルティエはなんともないというのか。真弥は、レーニルに助けを求めようと思い、視線を投げた。すると、レーニルはまるで悪戯の成功した子供のように、唇の端を吊り上げた。
その仕草がひどく癪に障り、ぎり、と真弥は奥歯を鳴らした。
「済まない、シンヤ。一つ言い忘れていた。このビルの周囲には“結界”が張られていてね。本来ならば意識することさえ出来ないものなのだが、流石は《
そんなことで治るもんか――そう思いながらも、真弥は足を引きずりながら、ゆっくりと前進する。まるで、芋虫の這うような、鈍重な速度だった。
レーニルが嘘を言っているようには思えないが、この不快感がそう容易く拭えるとは、とても思えなかった。
今にも胃の中身をぶちまけてしまいたくなる衝動に胸を掻きむしりながら、どうにか一歩を踏み出した、その瞬間だった。
「――え……?」
まるで、これまでの苦痛が嘘であったかのように、不快感も甘ったるい空気も、全てが消え失せていた。
「結界と言ってね。ある空間とある空間を隔てる境界を作り出す魔術さ。この結界は、敵意の有無に関わらず、侵入者を排除しようとするものでね。通常は、近付こうとする意思を無意識レベルで低下させ、それでも尚近付こうとする者は、精神に介入して強制的に遠ざける。今君が感じていた苦痛は恐らく、結界の効果と
レーニルが説明するが、真弥はその半分も理解出来ていなかった。
ただ、今の苦痛が、このビルの周囲に張り巡らされた結界という魔術によって引き起こされたのだということだけは理解出来た。
「まあ、詳しくは《
思わず、真弥は自分の左手に視線を落とした。今は包帯が解かれ、手の甲には幾つかの図形が、腕には螺旋状に連なる痣の群が浮かんでいるのが見て取れる。
――運命を覆すほどの力を持つという、破戒者の
「あの女狐がそのような善良な魔術師であるというのには、些か抵抗がありますが……」
苦々しげな表情を浮かべて、アルティエは呟いた。
女狐――《
真弥は驚きを隠せず、目をしばたたかせた。アルティエが誰かの悪口や陰口の類を叩くとは思わなかったからだ。けれど同時に、彼女の人間味を垣間見たような気がして、微かな喜びも感じていた。
「女狐とはあんまりですわね、ルナハイト」
不意に、誰もいないはずのビルの中から、声がした。そちらに視線を投げてやると、一人の女が立っていた。そして、一目で彼女こそが白の《
緩やかに波打った金の髪は腰ほどまで垂れ下がっており、
身に着けているのは、あまりにも場違いな純白のドレス。豊満なバストを強調するように大きく開いた胸元は、見ている真弥が恥ずかしさを覚えるほどだ。月明かりを受けて煌びやかに輝くドレスに合わせられているのは、高さ十五センチはあろうかというパールホワイトのピンヒール。
その出で立ちは、さしずめ舞踏会から抜け出してきた貴族の女性といったところだろうか。
絢爛に飾り立てられたドレスも、踵の高い靴も、この場にはあまりにも不釣り合いだ。それ以前に、街中で着る服装ではないし、そんな格好で出歩いて寒くはないのかなど、突っ込みどころは探し尽くすのが困難なほどにあるが、真弥は敢えて何も言わなかった。
何しろ、相手は《
真弥の常識では、そのような人種の考えていることなど量れないに違いなかった。
「何か失礼なことを考えていませんこと、《
「いや、何も……」
鋭い――内心で舌打ちしながらも、真弥は努めて平静を装った。それに気付いているのかいないのか、《
「おいでなさい、三人とも。《
そう言って踵を返すと、《
レーニルは口許に微笑を散らし、対照的にアルティエは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて、《
だが、真弥は立ち止まったままだった。
目の前の不法侵入に賛同する気にはなれない真弥ではあったが、最早退路などなかった。引き返すことの出来る最後の一線は疾うに踏み越えてしまったのだから。
ふとアルティエが足を止めて振り返る。一向に歩き出そうとしない真弥を怪訝に思ったのだろうか、「シンヤ?」と名前を呼んだ。
――迷っている暇はない。
もう決めたのだ。アルティエたちの力になる、と。彼は、そのためにここに来たのだから。いや、アルティエたちのためだけではない。文を、朋彦を護るために、鳴瀧真弥はここに力を手に入れに来た。
真弥は自らを鼓舞するように拳を握り、大きく深呼吸をした。顔を上げる。「よし」と小さく呟き、そして一歩を踏み出した。
07.09.22up
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