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/1 Boy Learns Himself (後編)
「では、シンヤにはわたしのわかる範囲でですが、魔術の基礎から教えるとしましょうか。尤も、わたしは
「いいよ、それで。俺は素人なんだし、それで十分だよ」
「そうですか」良かった、と言ってアルティエは続ける。「まず、魔術には二種類あります。真理への到達を目指す学問としての魔術と、神秘を引き起こす技術としての魔術。科学が未来へと進み続け、その極致として真理へ至るための学問であるなら、魔術はその対極。過去を遡り、原初の一点へ至ることを目指す学問。……“アカシックレコード”という言葉を聞いたことはありませんか、シンヤ?」
「漫画で見たことあるかも。歴史全部が記録されてる……ってやつだっけ」
その通りです、とあるティエは頷く。口許には、真弥の答えに満足したのか、微かな笑みが浮かんでいた。
「過去から現在を経て、未来――終末へと至るまで、ありとあらゆる事象が記録されていると言われるアカシックレコードに到達することで、全知を得ようというのが、魔術の本質です」
「全知……ねえ……」
一介の高校生に過ぎない真弥にとっては、途方もない話だ。全知とは即ち神のことだ。神の領域への挑戦――想像を絶すると言っていい。
だが、そんなことはどうでもよかった。
事実として真弥の左腕に〈
しかし。
一つだけ、真弥には認められないものがあった。
アカシックレコード――過去や現在だけではなく、未来までもを規定するもの。その存在を認めてしまうということは即ち、運命の存在を肯定することになる。
それだけは、出来なかった。
――佑介の死が決められていたなんて、認めない。認めてなんか、やらない。絶対に。
「シンヤ。ここまではわかっていただけましたか?」
「え……? あ……うん。一応」
アルティエの声に、真弥は生返事を返した。
実際は大雑把にしか理解出来ていないが、特に重要であることがあったようにも思えない。真弥は、真理などというものには興味などなかった。
ならば、その程度の疑問は無視してもいいだろう。
「では、話を続けましょう。先程も言った通り、魔術とは神秘を引き起こす、つまり物理法則では本来起こり得ないはずの事象を実現する技術です。そういう意味では、厳密に魔術と呼ぶべきはこちらでしょうか」
戦う手段としての武術と、自己鍛錬のための武道の違いと同じようなものだろうか。戦うための技術か、道を追うための手段か。根本としては同じであり、混同されることも多い概念だが、その終着点は大きく異なる。
昨夜のアルティエの技術は、決して剣道と呼べるものなどではないだろう。
「魔術の行使には、魔力と呼ばれるエネルギーが必要となります。人体には生命力などの形で魔力が宿っていますが、そのままでは魔力以外の不純物が混じっているために魔術には使えない。そのため、それを精製する必要があるのですが、通常の人間はその方法を知りません。それが出来るのは、魔術師か、突然変異的に魔力を扱えるようになった者だけです」
「その突然変異が俺ってワケか」
「ええ。あるいは、原初の魔術師こそ、その突然変異の畸型だったのかもしれません」
両親が実は魔術師でした、などというドッキリがあるはずもなく、鳴瀧真弥は純度百パーセントの一般人なのだった。現在進行形で一般人から懸け離れていっているのだが。
アルティエは続けた。
「人間には元々魔力を体内で生み出すことも出来るのですが、そうして生み出せる魔力は微々たるもの。そこで、この世界に満ちた魔力――マナを利用することになります。マナを体内に取り込んで貯蔵し、必要に応じて精製して魔術を行使する。魔力の貯蔵量には個人差があり、通常の人間はこの容量が非常に小さい。基本的に、運用出来る魔力は自身の容量分のみですから、仮に魔力の精製が可能であったとしても、一般人では魔術を使えないことが多いのです」
魔力、マナ、精製――アルティエが口にする魔術に関する単語を一つ一つ脳に刻みつけ、自分の中で反芻するようにして意味を噛み締め、一連のプロセスを、深く深く心に焼き付ける。
「そうして精製した魔力を、詠唱などによって魔法と呼ばれる法則に従い神秘に変換する――それが、我々が魔術と呼んでいる技術です。魔術とはその法則に則って構築された式のことである、と言い換えることも出来ますね」
ここまではわかりましたか、と小さく首を傾げるアルティエに向かって、真弥は手の平を突き出した。ちょっと待ってくれ、というジェスチャーだ。
アルティエの言葉を、真弥は脳内で何度も繰り返す。だが。
――駄目だ、わかんねえ……。
言葉としては真弥にもわかるが、いまいち理解出来ない。イメージが湧かないのだ。
「シンヤにもわかりやすく言い換えるなら」頭を捻る真弥を見かねてか、アルティエは言った。「魔術とは機械や、コンピューターのプログラムのようなものであるとも言えるかもしれません。電気というエネルギーを特定の動作に変換する機械。あるいは、プログラムという式によって決められた動作をするプログラム。こう言えば、イメージ出来るのではないでしょうか」
「……ああ――そういうことか」
真弥もコンピューターに詳しいわけではないが、要するに魔法というのはプログラム言語なのだろう。その言語に基づいて魔術というプログラムを組み、動作させる。このプログラムの動作に必要なエネルギーが魔力なのだ。
「オーケー、わかった。……そういえば、昨日俺が使ったあれ――あの火も魔術なのか?」
「ええ。あの焔が科学とは全く異なるプロセスによって発生したことは明らかです。シンヤの腕に外傷がない点から考えても、あれは魔術と見て間違いないでしょう」
やっぱりか――真弥は自分の左腕を見下ろした。だが、そうであるとすると、先程アルティエが言ったことと矛盾するのではないだろうか。
真弥は訊ねた。
「けど、それっておかしくないか? だって、魔術ってのは詠唱――呪文を唱えなきゃいけないんだろ? でも、俺は昨日呪文なんか唱えてないぞ。そもそも、俺は今まで魔術のまの字も知らなかったんだから」
「確かにシンヤは呪文を口にしてはいませんが、魔術には呪文を必要とするものとしないものとがあるのです。熟練の魔術師であれば、念じるだけである程度の魔術を行使することが出来ますし、道具を用いることで詠唱なしに魔術を行使することも出来るのです。――魔法陣、というものを知っていますか、シンヤ?」
「あの円の中に六芒星とか描いてあるやつか? 漫画とかに出て来るような」
ゲームや漫画、小説にだって魔法陣というものは幾らでも登場する。もう使い古されたようにさえ思えるほどだ。
「概ねその通りです」アルティエは口許に微笑を湛えて頷いた。「シンヤの言った六芒星の魔法陣は古代から魔除けとして、あるいは逆に魔力を増幅する陣として広く用いられてきました。図形には、秘められた意味があります。図形以外にも、一定の形状――文字などが力を宿すという例はあります。魔法陣とは、そういった魔術的な文字や図形を組み合わせることによって、陣の内外に魔術的な力の場を生み出したり、象徴として魔力を増幅させるための、“魔術触媒”と呼ばれるものの一種です」
「……魔術、触媒……ね」
真弥は、過負荷できりきりと痛むこめかみを押さえた。
アルティエの説明は、加速度的に理解の範疇を上回っていく。またもやの新しい単語の登場に、真弥の脳はオーバーヒート寸前だった。
自慢には決してならないが、真弥の成績はあまり良くない。朋彦よりはマシといったレベルではあるが、そんなのはどんぐりの背比べでしかない。授業に登場した英単語を覚えるのでさえやっと出来るかどうかだというのに、こんなわけのわからないオカルトじみた単語を幾つも覚えろという方が無理というものだ。
随分と現実離れした現実に足を踏み入れちまったもんだ――真弥は軽い後悔を覚えていた。
後悔先に立たずとは正にこのことか。
既に、今の真弥はその後悔を抱えて、無理にでも進むしかないのだから。
「……悪い。正直、全然ワケわけんねえ。さっきの魔術がどうたら、ってのまではわかってるんだけどさ。魔法陣ってのは図形とかを組み合わせた、魔術を起こすための道具……ここまでは合ってるよな?」
やや強張った顔で真弥が訊ねると、アルティエは頷きを返してくれた。
ふう、と小さく吐息して、真弥は質問を続けた。顔の緊張は僅かにだが解れている。
「えっと……なんだっけ。その、魔術なんたらってやつ……」
「魔術触媒ですか?」
そうそれ、と真弥は頷く。「そうですね……」とアルティエは考え込み始めた。どうやって真弥に説明したものか、頭を悩ませているのだろう。
やがて、アルティエは顔を上げて口を開いた。
「魔術触媒とは、魔術師が魔術行使の補助などとして用いる道具や薬品などの総称です。特に杖や剣などといったの武装や装飾品などの形を取っているものを霊装と呼び、霊装はさらに魔力の補充や増幅、魔術の強化などに用いる補助霊装と、それ自体が一つの魔術の式となっている限定霊装とに大別されます。魔法陣は代表的な魔術触媒ですね」
成る程、と真弥は頻りに頷いた。
真弥がそこまでを理解したのを確認してか、アルティエは目を細めた。
「――さて。そろそろ本題に入りましょう」
「あ、ああ……」
さらなる真剣味を帯びたアルティエの視線は、真弥を気圧されさせるには十分だった。
だが、アルティエはそれを気にした様子もない。それだけ、これから話す内容が重要であるという何よりの証明だった。
「シンヤ。あなたの左腕――〈
「え――?」
――俺の左腕が、そんなモンだってのか……?
そんな馬鹿なことがあるはずが――ない、とは言い切れなかった。あんな、一瞬で人の肉を爛れさせるような焔を出すなど、魔術を使えない真弥には、霊装を用いでもしない限り、出来はしないだろう。
――ん……?
真弥は微かな引っ掛かりを覚えて、目を細めた。
「……なあ、霊装ってのは、要するに道具の形になった魔術なんだよな」
「ええ。それが何か?」
「だったらおかしいだろ。どうして魔力も何もない俺に
「言ったでしょう。あなたの左腕――〈
そういうアルティエの言葉は、ひどく冷たく感じられた。まるで氷だ。これが、アルティエ・ルナハイトという少女のものではなく、白の《
ただの一声。
それだけで、真弥の背中には脊椎が軋むような寒気が這った。全身が粟立ち、噛み合わぬ奥歯ががちがちと音を鳴らす。
だが、その震えを、真弥は奥歯を噛み締め、拳を握り締め、強引に押さえ付けた。
そんな真弥の様子など意に介した風もなくアルティエは続ける。
「先程も言った通り、人間にはマナを取り込まずとも、ごく僅かながら自分自身で魔力を生み出すことが可能です。しかし、あなたの場合――いえ、あなたの左腕の場合、生み出すことの出来る魔力が文字通り無尽蔵なのです。あなたの左腕は、膨大な魔力を生み出し、それら全てを一瞬にして精製することさえ可能とする。そしてそれこそが、〈
真弥は、驚きとともに自分の左腕を見下ろした。
アルティエの言う魄晶というものが一体なんなのか、真弥にはわからないが、口振りからすれば、文字通り最上級の霊装のことなのだろう。
「わかりやすく水にたとえてみましょうか。一般的な魔術師の魔力を、洗面器に張った水だとしましょう。その洗面器に、小さなグラスでマナを注いで蓄え、使う際は再びグラスで洗面器から汲み取る。洗面器やグラスの大きさには個人差があり、それが魔術の才能ということになります。――ですが、シンヤ。あなたの魔力は洗面器などでは量れない。巨大なプールでさえ足りない。あなたの魔力は、たとえるならば――そう、まるで海。いいえ、それですらあなたの魔力量を表すには足りないくらいでしょう。わかりましたか、シンヤ。あなたの左腕は最上級の霊装であると同時に、無限の魔力を内包する巨大な――あまりにも巨大な魔力庫なのです」
あまりに、桁が違っていた。
――なんだよ、それ……。
アルティエの説明に対して、真弥が唯一抱くことの出来た感想は、驚きだけだった。
実感が湧かない。そんなデタラメなたとえをされても、それが自分のことだと、そう簡単には受け入れられない。周囲の状況ならばまだしも、それが自分自身のことだから尚更だ。これまでの十七年間の人生、ずっと付き合い続けてきた自分の体が、そんな規格外の存在であるなどと言われ、はいそうですかと納得出来るはずがなかった。
今までも散々オカルトじみていた話が、ますます信じがたいものになっていく。それも、最もオカルトじみた――常識外れなのが、鳴瀧真弥自身だと来ている。
――笑えねえよな、ほんと……。
なんていうことだろう。
非日常の世界に足を踏み入れたことは、疾うの昔に理解していたはずなのに、まだまだそんなのは序の口だった。昨夜まではただ踏み込んだだけだった。だが、今は違う。たとえるならばそれは底無し沼。決して這い上がることの出来ない世界に、どっぷりと浸かろうとしている。
――しかも、その中で一番非現実的で、化け物じみてるのが俺の左腕だって来てる。ほんと、笑えねえ――。
く、と喉を引きつらせて、真弥はくしゃくしゃと髪を掻き混ぜた。
深呼吸を繰り返して、気持ちを落ち着ける。
ああ、くそ――内心で悪態を吐いて、真弥は顔を上げた。
「――ああ、よくわかった。要するに、俺の左手は飛びっきりのデタラメってことだろ」
「み、身も蓋もない言い方をしてしまえばそうなりますが……」
驚いたように――というよりも、呆れ果てたようにアルティエは頷いた。
真弥自身、もう呆れるしかない。最早、開き直って、全てを受け入れるだけだ。
もう大抵のことには驚かない自信が、真弥にはあった。一昨日の夜から始まった非日常は、ここに来ていよいよその度合いを増してきていて、その所為か耐性が付いてしまったらしい。あるいは、単に感覚が麻痺しつつあるだけなのか。
どちらでも、真弥は構わなかった。
「ところで――」
そう言い掛けたときだった。
ピンポーン、という間抜けなチャイムの音が、玄関から聞こえてきた。
あ、と真弥は短く声をあげた。もうそんな時間かと思って時計に視線をやれば、時計の針は六時五十分を指していた。いつもより十分ほど早いが、この時間帯にやって来る者は一人しかいなかった。
「悪い。文が来たみたいだから、この話はまた後で――学校から帰ってきてからでいいか?」
「ええ。彼女に聞かれてはまずいですから」
ありがとな、と礼を言って、真弥は席を立って玄関へと向かった。
「どうしたの、真弥君」
「ん、何が?」
通い慣れた通学路を歩き始めて三分ほど。いつものように隣を歩く文がそう訊ねた。
「か・お。思いっ切りニヤけてるよ」
「げ。マジか」
「うん、マジマジ。何かいいことあった?」
「んー……まあな。いいことはあった……かも」
ふうん、と文は頷いて立ち止まった。釣られるようにして真弥も立ち止まる。顔を前に向けると、横断歩道の信号は赤く光っていた。
――そんなニヤけてるのか、俺……。
自覚はなかったのだが、ぺたぺたと手で顔を触ってみると、確かに頬が緩んでいる。
だが、それも仕方のないことだろう。アルティエともう一度会うことが出来るなど、昨日は思ってもいなかったし、今度はアルティエも大人しく留守番をしていてくれるというのだから。
これがニヤけずにいられるかってんだ――開き直って、真弥は意識的に唇で微笑みを作った。
たとえ今後待っているのが命を懸けた戦いであろうと、今くらいは喜んでも罰は当たらない。
昨日は急だった上に疲れて何も出来なかったし、今朝は材料もなく何も準備は出来なかった。
その分、今日の夕飯は少しだけ豪華にして喜ばせてやろう――包帯を巻いた左手で鞄を担ぎ直し、真弥は微笑んだ。
「ちぃーっす」
がらがら、という聞き慣れた音と共に教室のドアが開かれ、脳天気の象徴とでも呼ぶべき男が顔を覗かせたのは、丁度三時限目の授業が終わったときだった。
「おはよう、国坂君。今日もゆっくりだね」
「まあな。鳴瀧が最近遅いから、オレもそれに合わせてみたのだ」
「……勝手なコト抜かすな、馬鹿」
はあ、と真弥は盛大な溜息を吐いて、手で顔を覆った。
三時限目の授業が終わったと同時に教室に入ってきたということは、この男のことだから、教室の前でずっと待っていたのだろう。授業中には教室には入らない辺り、ある意味で律儀とも言える。尤も、そもそも遅刻をするな、と言いたいところではあるのだが。
今更朋彦の重役出勤を咎めたり、珍しがる者など、誰一人としていない。流石に一年近くも続けば慣れるということだろう。
だからといって、積極的に朋彦と関わろうという物好きもいないが。遠目に眺める分には人畜無害、という認識がすっかり定着している。触らぬ神に祟りなし、ということか。
「よう、鳴瀧。もう気分治ったみてーじゃねえか。つーか、なんかあったんか、いつになく幸せそーな面して。お前がそんな幸せそうだと、突っついてぶっ壊したくなっちゃうじゃん、オレ。それとも何か、オレに会えたのがそんなに嬉しいか?」
こいつほど害のあるヤツはきっといない――真弥は、クラス中の認識を一人訂正した。
「どこをどう解釈すればそんな結論に行き着くんだよ、朋彦……。お前の脳味噌、ちゃんと皺あるか? 剥き立ての桃みたいになってたりしないだろうな」
「そういや、最近桃食ってねえな。今日のデザートは桃か?」
「いや、違うから。もしあったとしても、お前には食わせないから」
えぇー、とわざとらしく抗議の声をあげる朋彦。
――あたまいたい……。
きりきりとした軋みを覚えて、真弥は指先でこめかみを押さえた。
「……やばい。なんかいきなりブルーなってきたかも」
そう言って、机の上に上半身を預けるように突っ伏す。
朋彦の所為で、昨日の夜から続いて、今朝絶頂を迎えたはずの幸せな気分が台無しだ。まさかとは思うが、狙ってやっているのではないか、と邪推したくなってしまう。
「そりゃ大変だ。応援してやんぞ、鳴瀧」
他人事のように――実際、朋彦にしてみれば他人事なのだろうが――言って、断りもなく朋彦は真弥の机に腰掛けた。その所為で、ただでさえ狭い机の上がさらに狭くなり、窮屈なことこの上ない。
――コイツ、本当に俺を不愉快にさせるためだけにわざわざ学校来てるんじゃないだろうな。
邪推が過ぎるというものだろうが、そう思わずにはいられない真弥であった。
朋彦が机の上に座って半分近くを占領しているため、これ以上突っ伏すことは出来そうにない。仕方なく、真弥は上半身を起こした。
「……そう言えばお前、昨日一昨日と朝からちゃんと学校いたんだってな。何があった?」
この男が真弥よりも早く学校へ来ていたというだけでも驚きなのに、まさかホームルームから顔を出していたとは。天変地異の前触れであることは間違いなかった。
少しでも危険を避けるためにも、当分は朋彦とは距離を置いて生活するべきか。
だが、決まってその矛先は真弥に向くのだ。国外逃亡という線も検討しておかなくては――半ば本気で両親に頼むことを真弥は考えていた。
「よくぞ訊いてくれたっ!」よほど嬉しかったのか、朋彦は満面の笑みで言った。「実は兄貴がとうとう彼女と別れたらしくてな。前の彼女とはけっこー長かったんだけどよ、その分フラれた反動がでけえのなんのって。そーゆーわけで兄貴の八つ当たりを恐れたオレは、早寝早起き学校定時出勤という規則正しい生活を送っちゃってたワケよ」
奇蹟みたいな話だな、というのが真弥の率直な感想だった。
朋彦の兄とは真弥も何度か会ったことがあるし、その女癖の悪さ――本人曰く男の甲斐性らしいが――も知っていたが、そんな怖い一面もあるとまでは知らなかった。
だが、かつて中学留年の危機に陥った――無論教師の冗談のような脅しだったのだが――朋彦を、一時的にとはいえ更生させたこともあるのだ、あながち考えられないことでもない。
「それで? 今日遅れてきたってことは――」
「うむ。新しい彼女連れ込んで、一晩中ハッスルだ」
「……やっぱりか」
朋彦を更生させたのが八つ当たりのお陰ならば、八つ当たりの理由がなくなれば朋彦が遅刻をしない理由もなくなる。
――それにしても、フられて二日で新しい彼女か……。相変わらず女たらしだな……。
その女たらしぶりが、今だけは憎かった。
今日のように朋彦が遅刻してきてくれれば、真弥の
だが、このままのペースで遅刻を繰り返したら、朋彦の留年は確定事項となってしまう。
朋彦が留年してくれれば、真弥としては万々歳なのだが、それでしょげる朋彦ではない。さらに羽目を外すであろうことは想像に難くなかった。その後に襲い掛かってきそうな、度を増した災厄の数々を想像すると、泣き出したくなってくる。
朋彦の暴走で誰よりもとばっちりを受けるのは、間違いなく真弥なのだから。
「良かったのやら、悪かったのやら……」
天秤に掛けても、答えは出そうになかった。
「兄貴の彼女ってのが、これまたすげーんだよ」
「ん? なんだ。まだ続いてたのか、その話」
当たり前だろ、と言って朋彦は続ける。
「帽子からコート、中に来てる服は勿論、手袋にブーツと、何から何まで全身真っ黒でよ。ほら、あの葬式とかで着る――そう、喪服みてーな感じ。第一印象はドン引きだったな、ありゃ。演技がワリいっつーか、気が滅入るっつーか。見てるだけでテンションガタ落ちなワケよ」
両の手の平を上に向けて、肩を竦めながら大袈裟に溜息を吐く朋彦。
確かに朋彦の言う通り、全身黒尽くめというのは、あまりいい感じはしない。そんな服装は、朋彦の言う通り、喪服くらいのものだろう。あるいは、漫画にでも出て来そうな、あまりよろしくない仕事に就いている者たちか。上海や香港に多そうだというのは、真弥の偏見か。
けれど、まず何より先に真弥の脳裏に過ぎったのは、一人の男と、一人の少女だった。絶望の具現のような男と、可憐という言葉が似合う少女。黒という色以外に、ただ一点として共通点のない二人が、同時に思い浮かんでくる。
「でもよ、顔見たらマジでビビッたぜ。すっげー美人でやんの。芸能人並み――いや、それ以上だったな、ありゃ。外人なんだけどよ、色白で、顔見た途端、黒尽くめっつーのもマッチして見えんだわ、これが。なんつーの? ミステリアスな魔性の女、ってヤツ?」
「……わかったから人の机の上でくねくねすんな、気色悪い」
だが、朋彦は馬の耳に念仏とばかりに、相変わらず机の上で上半身をくねらせている。
取り敢えず黙らせとくか――一度椅子を後ろに下げて、真弥は机の中身を確認。中身は教科書が三冊程度だ。残りは全てロッカーに閉まってあるし、ノートはバッグの中にルーズリーフが入っているのみ。
問題ないな――結論に達し、真弥は小さく吐息した。
机の脇に掛けた鞄を床に下ろし、出来るだけ音を立てないように椅子から腰を浮かす。そして手前の縁に手を掛け――立ち上がりながら、一気に持ち上げた。
「うぉおっ!?」
ずるり、と朋彦の腰が机から滑り落ちる。だが、流石は朋彦、危機回避能力の高さは尋常ではない。すぐに姿勢を整え、しっかりと床に着地してみせる。
――だが、読みが甘い。
真弥の動きは止まらない。机を斜めに傾けるだけではなく、さらに跳ね上げるように机を持ち上げ――ちゃぶ台よろしくひっくり返した。
「ぃっ――!?」
ゴン! 鈍い音が響いた。
朋彦の声にならない悲鳴とその鈍い音に、一瞬クラス中の視線が集まったが、すぐに視線を逸らされた。
「ふう……」
ひっくり返した机を元に戻して、何事もなかったかのように椅子に座り直し、真弥は机に突っ伏した。ひんやりとした心地良い感触に目を細める。
すぐに教室は休み時間の喧噪を取り戻していた。
「いっ――てぇ……。鳴瀧。最近お前、オレに対する仕打ちが段々レベルアップしてねえ?」
「相手の耐久力が上がるに連れて攻撃力が上がってくのは常識だろ。今どき、攻撃力が上がらないRPGやらアクションってのも珍しいぞ。上がらないのは昔懐かしのシリーズかよっぽどのマゾゲーくらいだって」
「……オレはマゾじゃねえっつーの」
朋彦は涙目になって、頭頂部を頻りにさすっている。だが、それだけだった。
――普通、これくらいじゃ済まないと思うんだけど……。つくづく不死身なヤツだな……。
呆れるやら感心するやら、複雑な気分だった。
「現実にレベルアップされると、流石のオレも怪我するっての。つーか死ぬ」
「……現実に耐久力上がってるヤツが言うな」
まったく……と呟いて、真弥は上半身を起こした。
「まあ、憎まれっ子世にはばかるって言うし。そういうワケで、お前なら大丈夫だ、朋彦。お前は三世紀くらいに跨って長生きするよ。うん、俺が保証する」
昔の人々は、素晴らしい言葉を残してくれたものだ。顔も名前も知らない人々だが、今だけは拍手を送りたい。
「し、真弥君……。流石に国坂君も傷付くんじゃないかな、それ……」
今まで静観していたはずの文が、苦笑しながら口を挟んできた。
見れば、文の言う通り、流石の朋彦も今度ばかりは少々傷付いたらしく、俯いてこれ見よがしに落ち込んでいた。
流石に言い過ぎたかもしれない。手当たり次第深夜番組を見ていて、なまじ語彙力がある所為か、今の一言は思いの外朋彦の心を抉ったらしい。
たとえるならば、今の状況は牽制のつもりのジャブがうまいこと当たり、いいボディーブローが運良く入ったようなものだろうか。
残るはフィニッシュのストレートだけだった。
「何言ってんだよ、文。相手はあの朋彦だぞ? 俺の台詞で一々傷付くようなデリケートな作りしてたら、今頃世の中に申し訳なくって生きてられねえって」
「い、言い過ぎだってばっ」
言葉でこそ真弥を咎めているものの、文が笑いを堪えているのは一目瞭然だった。
「笑いながら言うなよ、文」
「だ、だって、仕方ないでしょっ」
大袈裟に腕を振りながら、必死に言い訳する文。だが、目尻に涙を浮かべ、目を細めて口の脇をひくひくさせているものだから、説得力は皆無だ。
そんなことをしている間に、四時限目の始まりを告げるチャイムの音が鳴り響いた。
言い訳をしていた文も、無関係を決め込んでいたり、無関心を装っていたり、楽しげに傍観したりしていたクラスメイトたちも、蜘蛛の子を散らすように自分の席へと戻っていく。
ただ一人、未だに落ち込んでいる朋彦を除いて。
「――グレてやる……」
チャイムの音に紛れて、ぼそり、と朋彦の呟きが聞こえた。
「……今更か?」
「――最初はグー! ジャンケンポン!」
いつも通り、朋彦とのジャンケンで昼休みは始まった。
二人の手はそれぞれチョキとパー。
「はい、俺の五連勝、と」
二日振りのジャンケンは、やはりいつも通り真弥の勝利に終わった。
そんな、当たり前のいつも通りが、真弥の目には少しだけ眩しく映る。それは、もう非日常の世界に足を踏み込んでしまったのだという自覚の所為かもしれなかった。
「じゃ、場所取りよろしくな。パンはいつも通りでいいか?」
おう、という声が返ってきたときには、朋彦は既にベランダから身を乗り出し、するすると排水管を伝って滑り降りていた。
毎度のことながら、朋彦の精神的な回復力は流石と言う外ない。たとえ世界の終わりのような顔をして絶望していたとしても、寝て覚めれば元通りだ。
「あ。そう言えば金……」
いつもは排水管を降りる前に五百円を手渡していくのだが、今日は忘れていたらしい。
買っていかない、という選択肢もあるにはあるのだが、流石にそれは不憫だろう。真弥の弁当が減る可能性もある。
財布の中身は、確認するまでもなく余裕があった。帰りに夕飯や明日の朝食の材料を買うために、今日はかなり余裕を持って入っている。
小銭があることを確かめて、真弥は鞄から弁当箱を取り出した。
「文、行こうぜ」
弁当箱片手に、教室のドアを開ける。「うん」と声が返ってきて、文が横に並んだ。いつも通り、二人で購買部へと向かって歩き始めた。
真弥の隣を歩く文の手には、朝の内に渡しておいた弁当箱の包みがある。今朝、文の朝食を用意しながら作ったものだ。唐揚げや出汁巻き卵といった定番の弁当には、きっと文は満足してくれるだろう。
「真弥君、ジャンケン強いよね。五連勝って言ってたっけ?」
「あれは俺が強いんじゃなくて、朋彦が弱すぎるんだよ。アイツ、ああいう部分は単純だからな。読みやすい」
実際は朋彦の出す手を読んでいるわけではなく、単に最初にパーを出す朋彦の癖を知っているからなのだが。読みでもなんでもなく、単純に最初にチョキを出してやれば、それだけで真弥の勝利はほぼ確定してしまう。
真弥の連勝は、朋彦が自分の癖に気付くか、気紛れで他の手を出すまで続くだろう。
尤も、あまりに勝ち続けて場所取り係がいなくなっても困るので、たまにはグーを出して負けてやるのだが。
三階と一階という、三年生との絶対的な距離の差を覆すことが出来ているのは、朋彦という圧倒的な機動力のお陰なのだ。
「俺はこのまま購買行くけど、文はどうする? 先行ってるか? 朋彦がもう待ってると思うけど」
階段を下りて、昇降口と購買部の分岐となる突き当たりに差し掛かったところで、真弥は文に訊ねた。先に行っているのなら走って購買に急ぐし、付いてくるのであれば、戦いに備えて覚悟を決める必要がある。
昼休みの購買は戦場なのだ。
「えーと……どうしよっかな。……うん、一緒に行く」
そっか、と返して、丁字路を右へ。一つ角を曲がったところで見えてきた購買部には、見事な黒山の人集りが出来ていた。
「焼そばパン一つ!」「クリームパン!」「おばちゃん、コロッケパン二つね!」
様々な方向から浴びせられる注文の嵐。
しかし、流石に慣れたもので、購買部のおばさんは迅速かつ正確に注文に応じていた。
「文、ちょっとそこで待っててくれ。あ、あとこれ頼む」
弁当の巾着袋を文に押し付けるように渡して、真弥は人の群の中に突撃した。
幾ら相手が客の扱いに慣れたプロだとはいえ、遠くからでは注文の声が聞こえるはずがない。まずは声の届く範囲まで近付かなければならない。
だが、順番を待っていては、目当ての商品は手に入らない。特に、朋彦の好きなカレーパンはトップクラスの人気商品だ。売り切れてしまうのは時間の問題だろう。
ならば、順番待ちをしている余裕はない。そんなことをしていては、あんパンしか残らない。
真弥は強引に人の海を掻き分けて突き進んだ。
無論、そう考え、実行するのは真弥だけではない。そう簡単に前に進めるわけもなく、押し退け、押し退けられ、押し合い圧し合い、牛歩の如き速度でゆっくりと前進を重ねる。
そうして揉みくちゃにされながら、どうにか真弥は戦利品を手にすることが出来た。ミックスサンドにカレーパン、飲み物はミルクティー――いつものメニューを手に、後続に押し退けられる形で人集りから脱出する。
腹を減っては戦は出来ぬ、という言葉はあてにならない。腹が減っているからこそ生まれる戦もあるのだから。
真弥と文が中庭へと向かってみれば、そこでは朋彦がベンチの上に寝転がって、場所取り――もとい午後一番の昼寝を満喫していた。
「起きろ」
「うごっ!?」
朋彦の腹に、軽く踵を落としてやる。いいところに入ってしまったらしく、朋彦は咳き込むように呻き声をあげた。腹を抱えて悶絶する朋彦をよそに、真弥は場所の空いたベンチに腰掛けた。その隣に文が座る。
手加減したとはいえ、油断していたところにクリーンヒットだ。朋彦はかなり苦しそうだった。腹を抱えて小刻みに肩を震わせるその後ろ姿は、まるで笑い転げているようにも見える。勿論、実際は苦痛に呻いているのだけれど。
「ほれ、朋彦の分。ちゃんと買ってきてやったぞ」
感謝しろよ、と言いつつ、お釣りの八十円と共に昼食を朋彦に手渡す真弥。
いつの間に復活したのか、「おう」と頷いて朋彦はそれを受け取った。
早速朋彦はミックスサンドの封を解いてかぶりつこうとするが、
「こら。食う前にちゃんと金払え。払い忘れてただろ、お前。五百円もらってないぞ」
げ、とあからさまに癒そうな顔を浮かべて、朋彦は制服のポケットから財布を取り出した。小銭入れから五百円玉を取り出し、
「――チ」
舌打ちと共に、指で硬貨を弾いた。
「聞こえてるからな」
「聞こえるようにやったんだよ」
にやり、と朋彦は唇の端を吊り上げた。
――ぶ、ぶん殴りてえ……。
思わず、真弥は包帯の巻かれた左手を固く握りしめていた。ふるふると小刻みに肩が震える。
そのまま拳を顔面に叩き込んでやりたい衝動に駆られるが、ここはお昼時の名所。先程の踵落として注目を集めてしまったということもあるし、勢いに任せて朋彦を殴ってしまっては周囲の迷惑になる。これ以上は周囲の視線が痛い。
少しでも気を緩めれば朋彦の顔面に突き刺さってしまいそうな左手を必死に抑え込みながら、真弥は受け取った五百円玉を財布の中に収めた。
はあ、と真弥は思わず溜息を吐く。
何故昼食を食べるだけで、こんなくだらないことでこうも疲れなくてはならないのか。全ての元凶である朋彦を睨み付けてやるが、朋彦は飄々と受け流して笑みを浮かべるばかりだ。
そこへ、
「うぅ〜ん、この唐揚げおいしー」
真弥と朋彦の間の空気を吹き飛ばすように、文の声が流れた。
文は呑気に唐揚げを頬張り、至福の表情を浮かべている。
「……食うか」
「……おう」
なんだか無性に虚しくなって、真弥は弁当箱の蓋を開けた。
朋彦は朋彦で、人気商品であるカレーパンにかぶりついていた。
真弥も以前食べたことがあるのだが、業者の大量生産とは思えないほどおいしかった。八十円という価格もあって、人気商品となるのも頷ける。
だからといって、毎日飽きもせずに食べるのはどうかと、真弥は常々思っているのだけれど。
真弥の視線に気付いてか、朋彦が真弥を見る。もぐもぐと口内のカレーパンを咀嚼し、ミルクティーで流し込んだかと思うと、唐突に口を開いた。
「やらねーぞ」
「いらねえよ」
そんなに物欲しそうな視線に感じられたのだろうか、勘違いして放たれた言葉に即答して、真弥は膝の上の弁当箱に視線を落とした。
気付けば休み時間は残り半分。文はもう食べ終わりそうだし、朋彦もサンドウィッチに取り掛かり始めている。真弥は、弁当を食べるペースを上げることにした。
「なあ、さっきからずっと気になってたんだけどよ」口をもごもごさせながら、朋彦が訊ねてきた。「包帯巻いてるみてーだけど、手どうした? 怪我でもしたか?」
朋彦の視線は、弁当箱を持つ真弥の左手に向けられていた。
「ちょっとな。昨日の夜ヘマして火傷した」
「大丈夫か? 気ィ付けろよ」
「わかってるよ」
――勿論、そんなものは嘘だった。
白い包帯は、真弥の肘から手の甲までを覆い、〈
包帯を巻いたのは、今朝、文がやって来てすぐのことだ。文に刻印を見られるわけにもいかない。アルティエに文の応対を任せ、その間に手早く包帯を巻いた。刻印が隠れればそれで良かったので、多少雑でも構いはしなかった。
幸い、真弥が一人暮らしをしていて、毎日自分で料理をしていることは親しい友人には知られていたので、言い訳には困らなかった。
「けど珍しいね、真弥君が料理で怪我するなんて。もう何年もなかったんじゃない?」
「昨日は疲れてたからな」
言い訳には困らなかったのだが、文の言う通り、真弥が料理をして怪我をするということは、今までほんの数回しかなかった。いずれも、料理を始めてすぐ――小学生の頃のことだ。
今でもたまに味付けを失敗したり、火が通りきっていなかったりという失敗は稀にあるが、指を切ったり手を火傷したりということはこの数年一度もなかった。
流石に何年も前から真弥を知っている文には怪しまれるかもしれないという懸念はあったが、返ってきたのは「ふうん」という相槌だけだった。それきり、文が再び弁当をつつき始めたので、今度こそ真弥も弁当に集中することにした。
07.08.04up
07.09.08cor
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