西上ドッペルゲンガー

/4 決意・自己否定(後)

 

 ――遡ること、およそ三時間前。
 夕方。今日一日の授業を終え、夏姫は家路に就いていた。赤信号に捕まり、歩みが止まる。
「いつになったら止むのかな、この雨」
 ぽつりと呟いて、ビニール傘越しに夏姫は空を仰いだ。この一ヶ月間殆ど休みなしに降り続いていた雨は、尚ももうしばらく続くらしい。
 今朝の天気予報を思い出して、憂鬱になりかけた自分を誤魔化すように夏姫は溜息を吐いた。
 信号が青に変わり、歩き出した夏姫の視界に、見覚えのある、特徴的な色彩が移った。
「え……?」
 思わず足を止めて振り返る。
 ――銀色。
 銀糸のように煌く長い髪。夏姫の知る限り、その特徴に該当する人物は一人しかいなかった。
「西上君……?」
 その名を口にしてから、夏姫は首を傾げた。
 貴秋は今日、学校を欠席していた。その彼が、何故下校と重なるような時間帯に外を出歩いているのか。
『――現場周辺では、事件直後に銀髪の男の姿が目撃されており……』
 昨晩のニュースが脳裏を掠めた。
 まさか、と思う。
 ニュースを見てすぐ、シュロッスに電話をして確かめた。西上貴秋は犯人ではないのだと、辰哉は言っていた。辰哉の言葉を疑うわけではない。だが、鎌首をもたげ始めた懐疑の念を拭い去ることは出来なかった。
 踵を返す。夏姫は男の跡をつけ始めた。彼は夏姫に気付いた様子もなく、そのまま歩いて行く。下校途中のクラスメイトと時折擦れ違ったが、それを気にした様子はなかった。
 角を一つ曲がった時、不意に、その姿が消えた。
 ――見失った……!?
 知らず歩調が早まる。スカートの裾が翻るのも気に留めず、水溜まりを冠型に弾けさせながら、夏姫は駆け出していた。だが、彼の姿は見つからず、焦燥ばかりが募っていく。
 やがて、夏姫は直感的に足を止めていた。
 高いビルとビルの間。薄暗い路地裏が、まるで洞穴のように奥へと続いている。この奥に銀髪の男がいるのではないかという予感は、既に確信にも似た直感だった。
 貴秋を信じないわけではない――信じないわけではないが、その可能性は零ではないのだ。
 鞄の中を探る。二重底の下に手を差し入れると、冷たい鉄の感触があった。通行人の視線がないことを確かめてからそれを取り出し、財布にしまっておいた指輪をはめる。ポケットには予備の弾倉をねじ込んだ。
 雨で濡れないように鞄を物陰に置いて、愛銃の引き金に指をかける。
「行くわよ……」
 自分を叱咤するような呟きと共に、夏姫はゆっくりと歩き出した。
 雲越しの陽射しも届かない路地裏には光源などなく、夜の帳が降りたように薄暗い。一歩進むごとに、視界はさらに暗く染まっていった。
「何、この匂い……?」
 口許を手で覆って、思わず夏姫は歩みを止めていた。
 鼻を突く刺激臭。路地裏に立ち込めたその匂いは、夏姫にとって覚えのあるものだった。ほんの二日前、これとよく似た匂いを彼女は嗅いでいる。
 脳裏に最悪の光景を描いた途端、夏姫は考える間もなく走り出していた。傘を投げ捨て、いつでも銃弾を発射出来るよう、安全装置を解除する。
 壁の陰から飛び出し、両手で銃を構え、
「――ぁ、あ……」
 瞬間。夏姫の脳は、思考を凍結させていた。
 ペンキの缶をぶち撒けたみたいに真っ赤な世界。
 暗闇の中で尚、それはあまりにも鮮やかで、あまりにも毒々しい色彩だった。
 不揃いの手足と、不揃いの体。地面に転がったボールのようなモノからは粘性の液体が零れていて、地面を赤黒く染めている。
 ごりごりという、固いものをすり潰すような音が聞こえる。
 数え切れない程の、人であったモノの成れの果て。無数の亡骸が、折り重なるように、無造作に転がっている。
 その、中央。月光にも似た冷たい輝きを湛える銀髪を紅に染めた、人影があった。
 脚が震える。体を支えることが出来ず、夏姫はその場に尻餅を突いた。
 それで、ようやく夏姫の存在に気が付いたのか。銀髪の男は、ゆっくりと振り返った。
 ルージュを引いたように真っ赤な口許。その手には、人の、腕が。
「ぁ、ぅあ……あ、ぁ……あぁあああああああ――!」
 咆吼のような悲鳴をあげ、夏姫はがむしゃらに引き金を引いた。轟音が連続して響き渡る。だが、照準などまるで無視して放たれた弾丸は、ただの一つとして男を掠めることさえ出来なかった。コンクリートで出来たビルの壁に、幾つもの銃弾が突き刺さっている。
 ク、と喉を鳴らして、男は一歩前に踏み出した。
「ひっ――」
 掠れた声が夏姫の喉から漏れる。ポケットから弾倉を取り出し、装填。
 だが、夏姫がそれを構えるよりも早く、男は夏姫の前に現れていた。小刻みに震える銃身を、男の爪先が蹴り上げた。宙を舞い、拳銃がアスファルトの上でバウンドする。夏姫は慌てて手を伸ばすが、男の手がそれを掠め取る方が早かった。
 刹那、轟音。乾いた炸裂音が、雨音を吹き飛ばす。
「慣れねえモンは使うもんじゃねえな」
 舌打ち混じりに男は言った。
 夏姫の頬を伝う朱色の雫。頬を掠めた銃弾はそのまま地面を抉り、アスファルトに蜘蛛の巣状のひびを走らせている。
「ぃ、いやぁああ――ッ!」
 傘を投げ捨て、男に背を向けて夏姫は四つんばいのまま駆け出していた。
 ――殺される。殺される殺される殺される!
 生存本能は、逃げろ、という命令だけを繰り返す。
 走る。駆ける。逃げる。
 全身を泥水に濡らし、幾つもの擦り傷を作り、表情を恐怖に歪めながら、恥も外聞もなく、ただ生き延びるためだけに、夏姫はがむしゃらに駆けていた。

「……おい、辰哉。道路交通法って知ってるか……」
 恨めしげに言う貴秋の顔は、血の気が引き、ひどく青ざめていた。
 辰哉のバイクで走ること十数分。普通なら三十分はかかるであろう距離を、辰哉は雨の中であるにも拘わらず時速百キロ以上で走破してくれた。派手に転倒するのではないかと肝を冷やしたのは一度や二度ではなかった。
 バイクに乗ると性格が変わる人間がいるというが、辰哉もその類なのかもしれない。
「早く着けたんだからいいだろう?」
「それはそうだけど。お前と言い所長と言い、もう少し一般常識を身に着けてくれ……」
「善処するよ」
 曖昧な笑みで受け流す辰哉に釈然としないものを感じつつも、貴秋は視線を上げた。そこには、四階建ての小さなマンションがあった。
「夏姫ちゃんの部屋なら、三○三号室だよ」
「……わかった」
 辰哉がバイクをロックしたのを確認するより早く、貴秋はロビーに飛び込んだ。
 クリーム色の内壁に沿って階段が取り付けられている。エレベーターはなかった。
 一段飛ばしで階段を駆け上る。規則正しい貴秋の足音に僅かに遅れて、辰哉のそれが続く。
 階段を上り三階に着くなり、息を整えさえせずに、辰哉に言われた夏姫の部屋を目指して疾駆する。三○三号室は階段から二つ離れた所にあった。
 上着を着たまま全力疾走した所為で、ひどく暑い。額を伝う汗を拭って、貴秋はレインコートを脱ぎ、丸めて腕に抱えた。
 膝に手を突き、息を整える。呼吸が落ち着いた頃に、遅れていた辰哉が追い付いてきた。
 壁にもたれて喘ぐ辰哉を尻目に、貴秋はインターフォンのボタンを押した。間抜けな電子音が返ってくる。だが、それに夏姫の声が続くことはなかった。
 貴秋は怪訝そうに眉根を寄せる。
「夏姫ちゃん、いる?」
 鉄の扉を軽くノックしながら、辰哉は穏やかな声音で訊ねた。
 微かな物音。最初は気の所為かと思ったそれは、けれどやはり気の所為などではなく、次第に近付いてくる。
 拳骨を握り、ドアを殴るように叩いて、貴秋は声を張り上げた。
「赤峰? いるんだな! おい、どうした、何があったん――」
 ガン! と鉄扉が悲鳴をあげ、貴秋の声を遮った。
 突然のことに思わず後退る貴秋の隣では、辰哉が目を白黒させている。
「帰ってよ、殺人鬼!」
「――え……?」
 左胸に、ありもしない痛みを幻覚する。
「赤……み、ね……?」
「……てよ」
 扉の向こうからは震える涙声。
「返してよ……! お父さんとお母さんを返してよ! この、殺人鬼!」
 他の誰にでもなく貴秋に向けて放たれたその言葉は、とてつもなく重い拒絶だった。そして、心臓に錐を突き立てられるような痛みを伴って深く、鋭く貴秋の心を抉る。
 強い想念は時として猛毒となる――泉水が以前口にしたその言葉は、真実だった。
 言葉に込められた強い想念――憎悪は、これ程にも貴秋の心を壊すのだから。
「ごめん、貴秋。ちょっとだけ、どいてて」
 辰哉が貴秋の肩を軽く叩く。貴秋は無言で一歩下がり、壁にもたれ掛かった。
「夏姫ちゃん、詳しく話してもらえるかな。昨日言ったよね、貴秋は犯人じゃないって」
「で、でも……でも、わたし、見たんです。西上君が、沢山の死体の中に立ってて……。わたしを、わたしを――」
 ――殺そうとした、と。震える声で、けれどはっきりと、夏姫は言った。
 瞬間。
 貴秋はドアに拳を叩き付けていた。
「貴、秋……?」
 辰哉は驚きを露わにして貴秋の顔を覗き込み、そして絶句した。
 貴秋は、未だかつて辰哉が見たこともないような表情を浮かべていた。憤怒に満ちたそれは、正しく鬼の形相と呼ぶに相応しい。
「――赤峰。それ、どこだ?」
 感情を押し殺した冷たい声音で、貴秋は問うた。しかし、抑えきれない激情が滲んだその声は、震えていた。
 答えはない。代わりに、すすり泣くような声が漏れてくるだけだ。
「いいから答えろっ……!」
 もう一度、強く拳を叩き付ける。皮膚は擦り切れ、貴秋の右手には血が滲んでいた。
 ひ、と短く息を呑む音。
「が、学校に行く途中の……本屋とこ、コンビニの向かいの、ろ、路地裏……」
 跡切れ跡切れに返ってきた夏姫の声に、そうか、とだけ頷いて、貴秋は踵を返した。
「辰哉。後は頼んだ。俺は……俺は、ケリを着けてくる」
「了解。気を付けて」
 辰哉の言葉に手を振って答えると、貴秋は階段を一段飛ばしで駆け下り、そのままマンションを飛び出した。
 このマンションに来たのは初めてだが、周囲の地図は大凡覚えている。本屋とコンビニが隣接している箇所は、貴秋の記憶の中にはただ一つだけだった。

 土砂降りの雨の中、貴秋は足を止めた。傘も差さずにずぶ濡れになった貴秋を、道行く人々が怪訝そうに眺めている。手の中のレインコートを見て、着ておけばよかった、と後悔した。
 振り返れば小さな本屋とコンビニがあり、目の前には月光はおろか街灯の光さえ届かない暗闇が広がっている。視線を落とすと、見覚えのある小さな鞄が落ちていた。
 ここだな、とごちて、漆黒の闇の中へと足を踏み入れた。
 水溜まりが跳ねる。ぱしゃん、という水音は、いつの間にか、ぬちゃ、という粘性を帯びていた。靴の裏と地面の間に細い糸が引いている。
「くそ……!」
 きつく、きつく奥歯を噛み締める。唇の端から血が零れたが、そんなことは気にも留めずに、尚も貴秋は歯を食いしばった。
 ここで、夏姫はあの男――西神白貴と出会ったのだ。もしその場に自分がいれば。悔恨の念は尽きない。
 立ち込める匂いは、紛れもなく血の匂いだ。地面に広がった血溜まりは、まだ固まりきっていない。それは即ち、惨劇からさほど時間が経っていないことを意味していた。
 あ、と。唐突に貴秋は声を漏らした。
 暗闇に慣れたからこそ気付けたのだろう。壁には、何か固い筆で赤いペンキを塗りたくったような模様――字が書かれていた。
『金星の名の地で待つ』
 ただ、それだけ。誰の誰に対するメッセージであるかは書いていない。だが、西神白貴から西上貴秋に宛てられたものであることは間違いなかった。
 何かの暗号だろうか。少なくとも、貴秋に心当たりはなかった。だが、わからないならば訊けばいい。幸い、この手の暗号には滅法強そうな人間が貴秋の近くにはいるのだから。
 携帯電話を取り出す。同時に踵を返し、貴秋は再び雨の中を駆け始めた。
「所長、金星の名の地ってわかるか?」

 貴秋が雨の中を駆けていったのを見届けると、さて、と辰哉は再びドアと向き合った。ポケットの中をまさぐり、小さな金属片を取り出す。それは、鍵だった。
 それは、なんの抵抗もなく鍵穴に吸い込まれていく。鍵が半回転して、錠が開く。
「お邪魔します」
 まるで親しい友人の家のように朗らかな声で言って、辰哉はドアを開けた。
 靴を脱いで框に上がると、大きく口を開けて立ち尽くす夏姫の姿があった。
「三日振り、かな。電話ではさっきも一応話したけど」
 雨が強くて大変だったよ、と言いながらレインコートを脱いで、玄関タイルの上に置く。
「な――」
 ようやく我を取り戻したのか、夏姫が小さく声をあげた。辰哉が首を傾げる。
「なんで榊さんがわたしの部屋の鍵持ってるんですかっ!?」
 予想を遙かに上回る夏姫の声量に、辰哉は思わず耳を塞いだ。甲高い耳鳴りに耐えながら、ポケットから先程の鍵を取り出す。
「企業秘密――と言いたいところだけど、そんな大袈裟なものじゃなくて、単なる所長命令」
 突然夏姫の家の鍵を複製しろと言われた時は面食らったものの、まさかそれが役に立つ日が来ようとは。あるいは、泉水はこういった状況を予見していたのかもしれない。
「というわけだから、その銃口は僕じゃなくて所長に向けてくれるとありがたいんだけど」
 いつの間にか、夏姫の手には小さな拳銃が握られていた。護身用の二連射デリンジャー。撃鉄は起こされ、銃口は正確に辰哉の眉間に向けられている。
 両手を挙げ、辰哉が降参の意思を伝えると、右手に拳銃を構えたまま、夏姫は左手を手招きするように動かした。両手を挙げたまま、辰哉は鍵を夏姫に向かって放る。床に落ちたそれを拾い上げてポケットにしまうと、ようやく夏姫は拳銃を下ろした。
 だが、指は引き金に掛けたままだ。その瞳には友好的な感情は込められていない。あるのは、炎のような怒りと憎悪、氷のような殺意だけだ。
「――どういうつもりですか? 榊さんは昨日、西上君は犯人じゃないって言いましたよね。……でも、犯人は彼以外にはあり得ません。現に、わたしはこの目で彼が殺人現場にいるのを見ているんですから」
 夏姫にとって、それは絶対の真実だ。殺人現場にいた西上貴秋が夏姫から拳銃を奪い、殺そうとした。それが、たった一つの真実。
 けれど。
「でも、それはおかしいんだよ。だって、貴秋は今日、一日中シュロッスにいたんだから」
「……え?」
 嘘じゃないよ、と辰哉は普段通りの穏やかな声音で念を押した。
 夏姫の知る限り、榊辰哉は嘘を吐くタイプではない。付き合いは浅いが、彼が真顔で嘘を吐ける程器用な人間でないことを夏姫は知っていた。
 だが、辰哉の言葉が事実であるとするならば、あれは一体誰だったのか。夏姫の脳裏に、先程の光景が蘇る。そこにいた人物は、紛れもなく西上貴秋ではなかったか。
「……じゃあ。じゃあ、一体あれは誰だって言うんですか!? あれは、間違いなく西上君だった。わたしが見間違えるなんてありえない、絶対にあれは西上君でした!」
「うん、そうだね。夏姫ちゃんが見たのは、確かに貴秋だったのかもしれない」
 荒げられた夏姫の声に対し、辰哉の声はあまりにも穏やかだった。
 矛盾している。貴秋は一日中シュロッスにいたと言う。けれど、夏姫が見たのも確かに貴秋だったのだと言う。同じ人物が二人もいるとでも言うのか。思考が千々に乱れる。
「それって、どういう――」
 そこで。夏姫は、一つの可能性に思い当たった。冷たい汗が噴き出すのがわかる。
 同一人物が、同時に複数存在する。あり得ないはずのその現象を、自分は身近に知っているのではなかったか。
 ――そう。両親の、仇として。
「……ドッペル、ゲンガー――?」
 知らず、夏姫は呟いていた。
「御名答。今回の事件の犯人は、貴秋であって貴秋じゃない。貴秋のドッペルゲンガーなんだよ。事件現場で銀髪の男が目撃されるのも当然さ。だって、犯人も銀髪なんだから」
 夏姫の手からデリンジャーが滑り落ちる。硬質な音と共に床で一度跳ね、そして沈黙する。
「じゃあ、わたしは……わたしは……!」
 膝から崩れ落ちるように、夏姫はその場に座り込んだ。
 彼を、傷付けた。
 彼は普通の人間だったのに。決して殺人鬼などではなかったのに。ただ、自分を心から心配して来てくれただけだったのに――。
 夏姫の白い頬を澄んだ雫が伝い、フローリングの床で弾ける。一つ、二つ。数を増していくそれは後から後から零れ、床に小さな水溜まりを作っていた。
「――一つ、昔話をしようか」
「え……?」
 辰哉の声に、夏姫は涙で満ちた目を上げた。その拍子に、また一粒涙が零れ落ちる。
「と言っても、所長から聞いただけの話なんだけど。どうする、聞く?」
「お願い……します」
 今、わざわざ昔話をしようと言うのだ、無意味な話であるはずがない。そして、それはきっと、夏姫が知らなくてはならない、大切なことに違いなかった。
 夏姫が頷くと、了解、と言って辰哉は夏姫の隣に腰を下ろした。
「ある所に、とある魔術師の家系があった。彼らは古い古い一族で、何百年――いや、千年もの時を重ねた、由緒ある家系だった。けれど、彼らに扱うことの出来る魔術は、ほんの僅かしかなかった。……要するに、才能のない血統だった」
 夏姫は黙って辰哉の話に耳を傾けるしかない。魔術師についての知識などは殆ど皆無だが、それについて訊ねる理由はなかった。重要なのは、魔術師という人種ではないのだから。
「才能のない魔術師はどうすると思う? 答えは簡単、彼らは自分達に扱える数少ない魔術を極めようとしたんだ。そして、彼らは実際に、召喚というたった一つの魔術を極めたんだ」
「召喚って、ドラゴンとかを呼び出す……あれ、ですか?」
 漫画やゲームから夏姫が得た知識ではそれが限度だった。
「うん。異世界――この世の裏側から、この世ならざる者を呼び出し、服従させる魔術。所長達の間では魔獣って呼ぶらしい。普通は力のある魔獣を呼び出すと呑み込まれてしまいかねないらしいけど、彼らにはその一点に関してのみ才能があったんだ。そして彼らは、誰にも出来ないような偉業を成し遂げた。自分達の名に由来のある魔獣――いや、神を呼び出したんだ」
「神って……。そんなこと、出来るんですか……?」
「普通は無理だろうね。所長をして奇跡と言わしめるくらいだから。言い換えれば、彼らの才能はそれさえ可能にした。名は体を表すとは言うけれど、正にその通りだよ」苦笑するように唇の端を持ち上げ、「そして彼らは、自らの呼び出した神と交わり、子を成した。神の血をその血統に迎え入れ、神の一部をその身に宿したのさ」
 それは、あまりにも馬鹿げた話だった。夏姫は言葉を失うしかない。
 辰哉の口からそれが語られているという事実が、余計にその話を信じがたくしていた。
 だが、それが真実であることは疑うべくもない。黒澤泉水という女性は、そんなくだらない嘘を吹聴するような人間ではないのだから。
「けれど、彼らが宿すことが出来たのは、あくまで神の一部でしかなかった。神の力全てを得ることは出来なかったんだ。そこで、彼らは近親婚を繰り返し、血を濃くすることにした。血を濃くすることで、完全な神を宿そうとしたんだ。それが、大体五百年くらい前の話らしい」
 そこで辰哉は一度言葉を句切り、目を瞑った。夏姫の喉が鳴り、促されるように口を開く。
「そして、十八年前。とうとう、完全な神を宿した子供が――西神家の最終血統とでも呼ぶべき子供が生まれたんだ」
「――西、が……み? まさか、それって……!」
 以前。何故自分ではなく貴秋が攫われたのかと泉水に訊ねたことがあった。その答えもまた、西神≠セから、ではなかったか。
「そうさ、それこそが西神貴秋。貴秋こそ、神をその身に宿した、西神一族の最終血統さ」
 ――視界が、暗転した。
 辰哉の言葉が悪い冗談であってくれれば、と思う。だが、理解している。辰哉がそんな冗談を言う人間ではないことを、嫌という程夏姫は知っていた。
 先程、彼を殺人鬼と呼んでしまった。だが、彼は殺人鬼などではなかった。その事実に対し、悔恨と同時に安堵を覚えたのもまた事実だった。
 赤峰夏姫にとって、西上貴秋とは同僚という非日常の象徴であると同時に、クラスメイトという日常の象徴でもあったから。だから、普通の人間だと思っていた。
 けれど、違った。彼こそ、普通の人間からは誰よりも遠く離れた存在だった。
「そのこと、西上君は……?」
「知ってるよ、勿論。一昨日、実の父親から全部聞かされたらしいから」
「そう……ですか」
 夏姫に言えることなど、何もない。夏姫は人間だ。どんなに普通の人間にはない特殊な能力を持っていたとしても、あくまで人間の範疇を脱することはない。
 けれど。貴秋は、人間であることさえ許されない。
 それは、どれ程の恐怖なのだろう。人間でしかない夏姫には、想像することさえ許されない。
「――さて、と」
 話は終わり。辰哉は立ち上がると、ポケットからバイクのキーを取り出した。
「そろそろ、行こうか」
「行くって――どこに、ですか……?」
 困惑する夏姫に対し、決まっているだろう、と辰哉は微笑んだ。
「貴秋の所さ。まさか、貴秋一人に全部を任せるわけにもいかないだろう?」
 辰哉が、手を差し出す。それを掴んで。
「――はいっ」
 力強く、夏姫は頷いた。

 大きな音と共に、勢い良くシュロッスのドアが開け放たれた。
 反射的にそちらへ視線を向けた泉水は、驚きで煙草を取り落としそうになった。雨に打たれ、全身から水を滴らせている貴秋が立っていたのだから、無理からぬことだった。
「ちょっと、どうしたのよ、西上君……」
「そんなことより、銃と弾丸貸してくれ。一挺じゃ足りそうにない」
 眼鏡の奥の目が細められる。魔術師としての黒澤泉水の瞳に、冷たい光が差す。
「行くのね」
 どこへ、とも、何をしに、とも言わない。全てわかっている。だから、たったの一言で十分。貴秋もそれをわかっているのだろう、ああ、とだけ短く頷いた。
「――そう。じゃあ、これを貸してあげるわ」
 煙草の火を消してデスクを離れ、本棚の前に置かれていた革張りの小さなトランクを貴秋に手渡す。
 中身を確認してみると、自動小銃が一挺と、予備の弾倉が五つ詰められていた。
「相手が相手だから通用するかはわからないけど、一応弾頭は全て銀製にしてあるわ」
「そっか、助かる」
 魔除けのための弾丸を込められた弾倉を取り出して二つはポケットにしまい、残りはベルトに挟み込む。拳銃も同様にベルトに挟み込んだ。
 服の上からでも形が見えてしまうが、指輪をはめておけば見とがめられる心配はない。
「それじゃ、行ってくる」
 泉水は無言で頷いただけだ。わざわざ掛けるべき言葉はなかった。
 髪から雫を落としながら、貴秋は踵を返してドアの向こうへ消えていく。
 その姿が見えなくなったのを確認してから、泉水は煙草を取り出し、火を点けた。ゆっくりと吸い込む。細く、けれど長く吐き出された紫煙が空気に融けて消えていった。
「頑張って、とだけエールを送っておくわ、西上君」
 そう言って。もう一度、唇の間から灰色の煙を吐き出した。

06.10.21up

 


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