志乃姉来襲の翌日、金曜日。明日明後日と土日が連続して休みになったので、普段より少しだけ練習が長い。二時近くになって、やっと終わったのだ。
 ……いや。終わってしまった、と言うべきか。
「ヒロ、帰らねーの?」
 ゲームシャツやサッカーパンツといった格好から制服に着替え終わった頃、秀司しゅうじが訊ねてきた。多分、なかなか帰ろうとしない俺を不思議に思ったんだろう。既に他のチームメイトは帰り始めようとしている。
「……正直帰りたくないかも」
「お、何あったんだよ。喧嘩でもしたか?」
「喧嘩はしてないよ。俺らラブラブだし」
「……ぶん殴っていいか?」
 それは勘弁、と丁重にお断りして、エナメルバッグのストラップを肩に引っ掛ける。
 俺とゆきちゃんの関係がバレるとまずいとわかっているのか、秀司は俺たちのことを周囲に悟られるようなことはしない。今だって、ゆきちゃんとというのをぼかしてくれてるし。
 今更ながら、秀司が友だちで良かったと思う。
 思うから――
「……秀司。ウチでメシ食ってくか?」
「え、マジ? いいのか?」
「ああ。口止め料とでも思ってくれ」
「うわ、ラッキー! 今月ピンチでさ、メシ代節約して色々やり繰りしねえとまずいなー、とか思ってたトコなんだよっ」
「じゃ、決まりな。帰ってから作ることになるから、少し遅くなるけどいいか?」
「いいに決まってんだろ。ただでヒロのメシが食えるんなら、それくらいなんでもねえって」
「じゃ、帰るか。あ、みんなにメールでもしといてくれ」
「了解」
 ――こいつにも犠牲になってもらおう。

 

 そんなこんなで俺のアパート。俺の両手には大量の食材が詰まったスーパーのビニール袋がぶら下がっている。
「――ヒロ」
「……なんだよ、秀司」
 ギギギギ、なんて擬音がしそうな、ぎこちない動きで秀司は部屋の中から視線を逸らして、顔を俺に向けると、
「……俺、やっぱ帰っていいか?」
「俺を一人にしないでくださいお願いします一生のお願い」

「ヒーローくーん。おかえりなさーい」
「やっと帰ってきたか。ヒロ、早く昼食を作ってくれ」

 ――部屋では、相変わらずの阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられていた。

 

 

andante
3/4 Capriccio IV

 

 

 台所に立ち、制服の上からエプロンを着けて料理を進めていく。
「それにしても、本当に久し振りだな、シュウ。会いたかったぞ」
「わ、わかったっ、わかったからっ! おいこらヒロ、黙ってないで助けろってば!」
 秀司の悲鳴を無視して、一口サイズのトンカツを揚げていく。
 ……うん、いい揚がり具合だ――なんて、ちょっと現実逃避してみる。
 振り向かなくても、背後で何が起こってるのかは簡単に想像が付いた。大方、志乃しのねえが秀司に頬擦りでもしてるんだろう。殆ど下着姿と変わらない格好で。
 ……悪いな、秀司。揚げ物の最中は鍋から目を離しちゃいけないんだ――と論理武装しとく。
「ねーねー、ヒロくぅん」
「ん? どうしたのさ、ゆきちゃん。ああ、これ終わったらもう完成だからちょっと待ってて」
 志乃姉が秀司に付きっきりで退屈になったのか、ゆきちゃんは珍しく――本当に珍しく、それこそ奇跡的に――台所に立っていた。尤も、ゆきちゃんに料理が出来ないことは明白なので、椅子に座って大人しくしてもらってるんだけど。
 ……酒で顔真っ赤にしてる人間に手伝わせたら、どんな惨事になるかわかったもんじゃない。
 さっきから口調もやけに舌足らずだったりするし。
「うん、楽しみー――じゃなくって。おねーさん、止めなくていーの? 岡本おかもと君、悲鳴あげてるけど」
 大丈夫かな、とゆきちゃんは心配そうに居間の方を見やる。
「大丈夫大丈夫、いつものことだから。秀司は志乃姉の大のお気に入りなんだよ」
「なら大丈夫ね」
「全然大丈夫じゃねえし!?」
 秀司の叫び声が聞こえてきたけど気にしない。……こうなるのわかってて連れてきたんだし。
 許せ秀司、駄目人間二人の相手は俺一人じゃ無理なんだ。そのことを、俺は昨日一晩で痛感していた。
 ゆきちゃんと志乃姉、二人揃ったときの駄目人間っぷりは、足し算じゃなくて掛け算なのだ。
 一人なら相手は出来るけど、流石に二人揃うとどうしようもない。特に、志乃姉はゆきちゃん以上に破天荒というか掟破りというか、とにかく色んな意味で駄目人間なので、一人を相手にするのもやっとだ。
 ゆきちゃんも大概駄目人間だけど、まあそこは、そういう駄目なトコも含めて可愛いってことで。やっぱり、恋人であるゆきちゃんと姉である志乃姉とじゃ扱いは違うのだ。
 ……そういうわけで、ゆきちゃんの対応は俺がするから、志乃姉は秀司に任せることにしよう。
 ――ただより高いものはなし。
 教訓として秀司には覚えておいてもらうとしよう。
 ……お詫びに、秀司の分だけトンカツ一つ増やしておくか。

 ――残念ながら、追加分のトンカツは志乃姉に強奪されたのだけれど。南無。

 

「……ヒロ。俺、そろそろ帰りたいんだけど」
 五時を回った頃、秀司はそう言った。真夏なので、五時といっても外はまだまだ明るい。
「……俺じゃなくて志乃姉に言ってくれ」
「無理言うなよ……」
 はあ、と俺と秀司は盛大に溜息を吐いた。
 立ち上がろうとするが、うまく立ち上がれずに、秀司はソファに腰を下ろし直す。
 ――秀司の肩には、志乃姉がぶら下がっていた。
 より正確に言うなら、肩越しに両腕を回して胸の前で交差して、首にぶら下がってる感じ。たっぷり酒が入って泥酔してるはずなのに、かなり強い力で両手を組み合わせてるのか、一向に解ける気配がない。
 ……つーか、一体どれだけ飲んだんだ、この人は。
 昨日の夕方からの丸一日だけで軽く十リットル以上の酒がなくなってるってのはどうよ。
 俺と秀司は飲まないから、酒を飲んでるのはゆきちゃんと志乃姉だけ。ゆきちゃんは一.五リットルも飲めば酔い潰れるから、実質志乃姉一人で十リットル飲んでるようなもんだ。
 ……あの体のどこにそんな大量に酒が入るんだろう。
 尤も、その十リットルはちゃんと体重に加算されてるようで、寄っ掛かられてる秀司は、さっきからずっと重そうにしてるんだけど。
「わかった、お前にはもう頼まねえ。……ゆきちゃ――」
「ゆきちゃん禁止」
 ……なんだろう。ものすごく久し振りに聞いた気がするぞ、その台詞。
 前に聞いたのは、確か秀司にバレたときだっけ。そう思えばそんなに昔のことでもないんだけど、やっぱり俺の部屋でこの台詞を聞くのは、なんだか不思議な気分だ。
「……相模さがみ先生からもなんか言ってやってくださいよ……」
 俺に助けを求めることは諦めたのか、秀司はその矛先をゆきちゃんに向けた。
 しかし、
「ごめんなさい」
 あっさりとゆきちゃんは一蹴した。即答だった。
「なんで!?」
「だって――」
 そこでゆきちゃんは一度言葉を句切って、にっこりと満面の笑みを浮かべた。
 いつもと変わらない顔なんだけど、酒精でほんのりと頬が赤く色付いている所為か――酒臭ささえ別にすればだけど――色っぽくて、少しドキッとさせられてしまう。
 そして、たっぷりと溜めを作ってから、ゆきちゃんは言った。
「――自分もやりたいこと人にやめさせられないもの」
「待て!?」
 言うが早いか、俺の制止も聞かず、ゆきちゃんは思いっ切り後ろから抱き付いてきた。
 不安定な椅子の上に座ってる所為で、衝撃に思わずふらついてしまう。ゆきちゃん共々ひっくり返る直前で、どうにかバランスを取り直す。
 軽く睨み付けてやるが、「えへへー」と言って受け流されてしまう。
 ぎゅっとしがみついてくる腕に力が込められる。時期が時期なだけにくっついてると暑苦しかったりするんだけど、クーラーが点いてるし、扇風機が風を送ってきてくれるからか、不快ではなかった。
 ……いや、正直に薄情するなら、たとえ真夏の空の下だろうと、ゆきちゃんとくっついているのが不快であるはずがなかった。
 薄い布越しにゆきちゃんの体温が背中に伝わってくる。
 とくんとくん――穏やかな、けれど少しだけ早い心音。それは、酔いの所為だろうか。それとも、俺に抱き付いてて、ゆきちゃんが少しだけ緊張してたりする所為だろうか。前者である確率が高いような気もするけど、俺としては後者であって欲しい。
「ん……」
 そのまま目を瞑って、ゆきちゃんは俺の首筋に顔を埋めるようにしてしがみつくと、ゆっくりと目を瞑った。
 吐息が鎖骨の上辺りをくすぐる。酒臭さの中に、甘くさえ思えるゆきちゃんの匂い。
 ……まずい。これは非常にまずい。いくらなんでも、この状況で理性を完璧に保てるほど俺は達観してない。というかむしろ、健全な高校生男子としては色々と持て余さずにはいられなかったりするわけで。
 この状況で何もしないってのも男としてどうよ、俺。
 据え膳食わぬはなんとやら。
 首を横に向けて、ゆきちゃんの顎に手を掛け――

「――殴っていいか、そこのバカップル」

 秀司の声で、我に返った。
 ゆきちゃんの顎に添えていた手を慌てて引っ込め、視線を秀司に向ける。秀司は、じとーっ、とこちらを睨み付けてきていた。
 ……正直、半分と言わず秀司のことをすっかり忘れかけていた。
 危うく秀司の目の前でゆきちゃんにキスするところだ。……そのゆきちゃんはといえば、俺にもたれ掛かった格好のまま、穏やかな寝息を立てていた。
「……お前ら、前よりさらにレベルアップしてねえ?」
「……否定はしない」
 と言うより、否定出来なかった。出来るはずがなかった。
 俺と秀司は、まるで鏡像のように向かい合っていた。俺はゆきちゃんを、秀司は志乃姉を、それぞれ首にぶら下げて。
 一応ゆきちゃんも椅子に座ってはいるものの、殆ど俺に全体重を掛けてきているので、少しだけ重い。けど、その重みを不快に感じることはなかった。
 他の誰かならともかく、ゆきちゃんの重みだ。嫌なはずがなかった。
「まあ、お前の気持ちもわからないでもないけどさ。けど、人を呼んで生け贄にしといてそりゃねえだろ」
「だから悪かったって。……それと、志乃姉に関しては本当に悪かった」
 片手を立てて、頭を下げる。
「ほんとだよ……。俺だって志乃姉は嫌いじゃねえけど、いるってわかってたら来なかったっての。この人の相手疲れんだもん」
「仕方ないだろ。二人を一人で相手にすんのは無理なんだよ」
 昨夜、志乃姉に夕飯を食い尽くされたものだから新しく作り直していると、いつの間にやらゆきちゃんと志乃姉は見事に意気投合していた。
 駄目人間同士、波長が合ったらしい。
 それからずっと酒を飲んで肴をつまんで、二人して飲んで食っての大騒ぎ。
 今日ほど部活の存在を喜んだ日はなかった。
「……それに、真昼に俺とゆきちゃんのことバラすなって言ったら、秀司を呼べって言われたんだよ」
「なら仕方ねえか……」
 はあ、と秀司は大きく吐息した。
 ほんの数時間しか経ってないのに、秀司が一気に老け込んだように見えて、なんだか、今更ながらものすごく申し訳ないことをした気持ちになってくる。
 まるで妖怪に精気を吸われたみたいだ。
 志乃姉は実の弟である俺以上に秀司を可愛がってるからな……。好きとかってのとは違うみたいだけど。
 ……残念ながら、愛情表現の方法を致命的に間違ってたりするんだけど。
 つーか、酒入ってるからって、人の首にしがみついたまま眠るってどうよ?
「本当にごめん、秀司」
 俺はもう一度軽く頭を下げた。
「別にいいって。お前が退学になんのもゆきちゃんがクビになんのもヤだからな、俺。折角中学からの腐れ縁なんだし、一緒に高校卒業してえし」
 その後はどうなるかわかんねえけどな、と締め括って、秀司はソファの背もたれに体を預けた。
 秀司には本当に感謝している。
 いや、実際は、あのとき秀司がいきなり来たりしなければゆきちゃんとの関係を知られることもなかったのかもしれないけど、それだっていつかはバレたことだろう。それに、一応は自他共に認める親友である秀司にずっと隠しごとをし続けるというのも後ろめたかった。
 もしかすると、俺はゆきちゃんとの関係を誰かに知ってもらいたかったのかもしれない。
 俺たちの関係を知っていい顔をする人は殆どいないだろうけど、秀司は違う。
 秀司は、なんだかんだ言いながらも俺たちのことを祝福してくれている。こういうところがあるから、腐れ縁云々は全部抜きにしてでも、俺は秀司と親友という間柄になれたんだと思う。
 尤も、俺の方にそれに見合った部分があるかどうかは正直わからないんだけど。
 まあ、その辺りは秀司がどう感じてるかだし、俺にはわかりようのないことだろう。
「ゆきちゃん禁止ぃー……」
 そんな寝言が、耳許から聞こえてきた。

 

「悪いな、秀司。夕飯まで付き合わせちゃって」
「いいって、もう……。ここまで来たら夕メシまで食わせてもらうって」
 あの後、結局志乃姉が秀司を離さなかったため、秀司には夕飯まで食べていってもらうことになった。
 昼食がトンカツとやや重めだったので、夕飯は軽めのものを、ということで本日のメニューは冷やし中華だ。
 具は錦糸卵、叉焼、キュウリ、トマトいうオーソドックスなものに加えて、くらげや煮卵。かといって、これだけでは流石に手抜きだと思われてしまいかねないので、タレはちゃんと自作した。醤油ダレ、胡麻ダレ、担々風と三種類。付け合わせとして、肉味噌を作ったりもしたので、それなりに豪華に見えるはずだ。
 ……四人、それも男女半分ずつなのに十玉ってのもどうよ。
 俺と秀司が二人で五玉食べるとして、ゆきちゃんが精々一玉半。……残りは全部志乃姉の腹の中に収まるわけだけど。
 それでも足りない気がするのは、昨日のことがあるからだろうか。普通、三人分の夕飯食いきったり出来ないって。しかも、その前に散々飲み食いしてたのに、だ。
 勿論と言うべきか、あの後用意した夕飯も一人前平らげたし。
 我が姉の胃袋は宇宙らしい。
 麺と具を乗せた皿をテーブルに配置して、タレの入った器を置く。勿論、十玉分の麺の置き場所なんてないので、山盛りの麺はこれまた大量の具と共にラップをしてキッチンに置いてある。
 ……志乃姉から食費請求しようかな、ほんと。
 昨日今日と二日間で一週間分近い出費だ。今月の家計簿は真っ赤になりかねない。
 一応志乃姉も社会人、食費くらい払ってくれるだろう。……いや、弟にかなりの額を支払わせるくらいの駄目人間だったか、この人。志乃姉ならやりかねない。
 ちなみに、ゆきちゃんもちゃんと食費を払うようになったのは梅雨も半ばの七月に入ってからのことだった。ゆきちゃんがシャワー浴びてる間に――その後にやましいことが待ってたりはしない――家計簿を付けてたところ、シャワーを浴び終わったゆきちゃんに見つかったのだ。
 あのときのゆきちゃんの謝り方は、普段じゃちょっと見られない。
「ヒロ、そんなところに突っ立ってないで、椅子に座れ。早く食べよう」
「はいはい」
 志乃姉に言われて、椅子に座る。普段は二人で使っているテーブルが四人で埋まっているというのは、昼もそうだったけど、なんだか新鮮だ。
 思えば、ゆきちゃんがお隣さんだってわかるまでは、一人だったんだよな……。
 隣に座るゆきちゃんを見ると、ゆきちゃんは小首を傾げた。「なんでもない」と言ってゆきちゃんの冷やし中華に醤油ダレを掛けてやる。
「ありがと、ヒロくん」
「どういたしまして」
 ゆきちゃんはお礼を言うけど、普段もやっていることだ。もうすっかりゆきちゃんの味の好みは理解している。
「ちょ、ちょっと待った、志乃姉! 掛けすぎだって!!」
「気にするな。タレというのは沢山掛かっていた方がうまいものだぞ」
 ……だからって、麺が汁に浸かるくらい掛けるってのはどうよ。
「志乃姉。自分のに掛ける分には構わないけど、あんまり秀司に迷惑掛けるなよ」
「迷惑など掛けていない。そうだろう、シュウ?」
「あー……いや。その……」
 珍しく秀司はしどろもどろになって言葉を濁した。明らかに迷惑がってはいるんだけど、志乃姉本人にあまり強くは言えないということか。
 なんだかんだで、秀司も志乃姉に気に入られていること自体は嫌がっていないようだし。
 単に過剰すぎる志乃姉の愛情表現に辟易してるだけだ。
 ここは助け船を出してやらなくちゃ、いくらなんでも可哀想か。
「だから、そうやって秀司に気使わせるなって。志乃姉と違って、秀司は客なんだからな」
「わたしも客だぞ」
「なんの連絡もなしに突然押し掛けてくる家族を客とは言わないからな」
 む、と志乃姉は不満そうに唸った。
「ね、ね」くいくい、とシャツの袖を引っ張りながらゆきちゃん。「ヒロくん、わたしは?」
 う……。なんでこんなに目を輝かせてるんだよ……。これじゃ下手なこと言えないじゃないか。
「ゆきちゃんは……そうだな……。一応客かな。――俺にとっては一番大事な」
 ゆきちゃんとは殆ど半分同棲してるようなものだけど、家族とは違う。かといって、ただのお客っていうのともまた違う。
 ……流石に、恋人だよ、なんて人前で言う勇気はなかった。
「えへへー……」
 まあ、ゆきちゃんが幸せそうだからそれでいいとしよう。
「――幸せそうなところ悪いんだが」不意に、志乃姉が言った。「ヒロ、お代わりだ」
 ずい、と差し出される皿。
「……俺、まだ食べ始めてさえいないんだけど」
「食事中に喋っているお前が悪い」
 それはそうかもしれないけど。普通、もう少し遠慮するもんじゃないだろうか。
 釈然としないものを感じつつも立ち上がり、麺と具を大盛りを通り越して特盛りってくらいにたっぷりと盛り付ける。皿の上に大量の汁が溜まってるものだから、やりにくいったらない。
 志乃姉に皿を返して椅子に座り直し、ようやく俺は食事を開始した。
「ヒロ、皿一つ借りていいか?」
「別に構わないけど」
「んじゃ、借りるわ」
 そう断って、秀司はキッチンへと向かった。さっきついでに頼んでくれれば良かったのに。まあ、何度も俺を立たせるのは悪いとかって思って自分で立ったんだろうけど。変なところで律儀なやつだ。
 秀司が戸棚から取り出したのは、皿ではなく小鉢だった。
 小鉢をテーブルに置くと、秀司はその上で冷やし中華の皿を傾けた。ぼたぼたと音を立ててタレが小鉢の中に溜まっていく。やがて、小鉢は半分ほどがタレで満たされてしまった。
「……志乃姉、掛けすぎにもほどがあるだろ……」
「これくらいが丁度いいんだ」
 思わず注意するが、志乃姉は頑として譲らない。
「明らかに丁度良くないから言ってるんだって。志乃姉ももう社会人なんだから、人の迷惑くらい考えられるようにならなきゃ駄目だぞ。ゆきちゃんを見習えって」
「……ヒロ、それ説得力ないぞ」
「いや、同じ駄目人間でも、基本的にゆきちゃん迷惑は掛けないから」
 俺以外には。
「――二人とも、わたしのこと馬鹿にしてない?」
 滅相もないです、と俺と秀司の声がハモった。

 

 夕食の後。
「ヒロ、俺そろそろ帰るわ」
 秀司がそう言ったのは、居間の時計が八時半を指した頃だった。
「もうこんな時間か。遅くまでごめんな」
「そう何度も謝んなって」
 秀司が苦笑する。
「なんだシュウ、もう帰るのか。泊まっていけばいいだろう」
「一応言っとくけど、ここ志乃姉の家じゃないからな」
 既に我が物顔で居着いてたりするけど。
 まあ、次に会えるのがいつになるかわからないから、もうしばらく一緒にいたいんだろう。その気持ちはわからないでもない。
「いくらなんでも泊まってくワケにはいかねえって」
「なんだ、泊まっていけない理由でもあるのか?」
「それは……」
 やけに食い下がる志乃姉に、秀司は助けを求めるように俺に視線を向けてきた。視線が「何か理由考えてくれ」と訴えてきている。
 言い訳を考えろと言われても、そんなの――いや、あった。
「志乃姉、無理言うなって。明日も部活あるんだから」
「む……。それなら仕方ないな……」
 秀司の顔に、満面の笑顔が浮かんだ。「ヒロ、ナイス!」と親指を立ててくる。志乃姉に気付かれないよう、「気にするな」と口を動かして返した。
 志乃姉には、明日明後日と部活が休みになることを伝えてはいない。ゆきちゃんが教えてるっていう可能性もあるけど、今日の午前中はずっと酒を飲んだり眠ってたりしたみたいだから、その心配はいらないだろう。
 明日ゆきちゃんとデートをするのであっても、何かと言い訳して一緒に出掛ければいいし、別々に出てデートらしく待ち合わせをするっていう選択肢もある。
 しっかり騙されてくれてるみたいだし、完璧な言い訳だった――はずだった。

「あれ? ヒロくん、明日は部活お休みだって言ってなかった?」

 ……空気を読もうぜ、ゆきちゃん。
 俺と秀司の意図を完璧なまでに無視した台詞だった。がっくりと秀司は項垂れている。思わず俺も盛大な溜息を吐いた。
「え? え?」
 ようやく自分が失言したと気付いたのか、困ったように俺と秀司の間で視線を行ったり来たりさせるゆきちゃん。
 ……困ったのは俺たちだと言いたい。
「どういうことだ、ヒロ?」
「う……」
 腕を組んで志乃姉が詰め寄ってくる。いかにもな怒っているという表情というわけではないけれど、無表情なのが逆に怖かった。
 思わず一歩後退ると、志乃姉も同じように一歩前に進んでくる。もう一歩、二歩――背中が、壁にぶつかった。
 ……やばい。これって、大ピンチだったりしないか?
 何か、何か言い訳しないと――
「じ、自主練! 自主練なんだよ、志乃姉っ」慌てた様子で――実際大慌てなんだけど――秀司が言った。「監督が明日もグラウンドは取ってあるって言うから、折角だし先輩とかと一緒にサッカーしようって話になってるんだよっ」
「そ、そう! 俺は合宿あるから、その用意がてらゆきちゃんとデートしようってだけで……」
 中一からの付き合いは伊達じゃない。
 試合中でも出来ないくらいの高度なアイコンタクトで、口裏を合わせていく。
「ヒロも誘ったんだけど、ゆ――相模先生とのデートなら仕方ないじゃん?」
「それに、秀司は二軍で定着出来てきたところだから、ここが踏ん張りどころなんだよ」
「監督にも気に入ってもらえてきたし、出来るなら合宿全部二軍で過ごしたいだろ?」
「俺も二軍に入れるかどうかってトコなんだけど、明日は先約あるし、そっち優先しようと思って。それに、監督に認めさせるなら、やっぱ合宿が一番だろ?」
 ずっと前から打ち合わせをしていたみたいに、尤もらしい言い訳を二人で並べていく。志乃姉が口を挟む余地は与えない。
 やれもう一人仲のいいやつも来るだの、やれ先輩から絶対に来いと言われてるだの、やれその先輩は怖いだの、やれけど実はいい人だの、やれ最近彼女と別れたらしくて機嫌悪いだの、段々と無関係なことに発展しつつ、二人で畳み掛ける。
 おかしいと思われる心配はない。何しろ相手は志乃姉だ。横で聞いてるゆきちゃんも同様。
 そうして二、三分も説明した頃には、
「わ、わかった。そうまで言うなら仕方ないな……」
 と言って志乃姉は折れた。
 秀司とアイコンタクトを交わして、喜びを分かち合う。
 ……こんな真似が試合中に出来てたら、きっと今頃レギュラーを勝ち取れていただろうに。

 

 九時を過ぎた頃、秀司は涙を流しそうなくらいに喜んで、家に帰っていった。対照的に志乃姉は微妙に落ち込んでたりするけど、少しくらい我慢してもらうしかないだろう。
 そして十時を過ぎた頃、今度はゆきちゃんが部屋に帰ることになった。と言っても隣だけど。
 後ろ手に部屋のドアを閉めて、アパートの通路でゆきちゃんと向かい合う。
 志乃姉が来てからというものの、二人きりの時間っていうのはなかったようなものだから、こんなちょっとしたことが少しだけ嬉しい。
 ゆきちゃん、昨日は酒飲んで爆睡だったからな……。
「じゃあ、明日は十時にいつものところね」
「了解」
 いつものところ――初めてデートしたときと同じ、公園の噴水前だ。
 ゆきちゃんが少しだけ背伸びをして、顔を近付けてくる。そっと触れるだけのキスを交わして、ゆきちゃんは仄かに紅潮した顔で微笑んだ。
 こういうことするの大好きな癖にいつまでも恥ずかしさが抜けない辺り、なんというか、相変わらず初々しい。
 そういうトコも可愛いんだけど。
「じゃあ、また明日。おやすみなさい、ヒロくん」
 軽く手を振って、ゆきちゃんは自分の部屋へと入っていった。それを見届けて、俺も踵を返す。ドアノブに手を掛けたときだった。
「あ……そうだ」
 隣のドアが開いて、隙間からゆきちゃんが顔を覗かせた。「何?」と軽く首を傾げて訊ねてやる。
「ヒロくん、ごめんね」
「ごめんって……何が? ゆきちゃんに謝られる覚えは――ないこともないけど……」
 かといって、わざわざゆきちゃんが謝るほどのことじゃない。この辺は俺とゆきちゃんの謝る基準の違いなんだろう。
「だって、明日とかほんとは自主練あったんでしょ? なのに、わたしとのデートの所為で休むことになっちゃって……。先輩とかに怒られない?」
「ああ――」
 ……ったく、本当にこの人は。こういうところだけは律儀なんだから。
「あんなの、嘘に決まってるだろ」
「え? 嘘?」
「そ。あのままだと、いつまで経っても志乃姉が秀司を解放しないからな。一芝居打ったってワケ。二軍云々は本当だけど、明日の自主練やら先輩に来いって言われてるだのってのは全部まとめて出任せだよ」
 ……先輩がフられたのは事実だったりするけど。
 それにしても、まさか、アレを信じていたとは。
 いや、ゆきちゃんならそのまさかもあり得るだろうとは思ったけどさ。
「そもそも――」
 小さく溜息を吐いて、俺は言った。
 これから言おうとする台詞が我ながら恥ずかしくて、照れ隠しに前髪をくしゃくしゃと掻き混ぜてみる。
「……俺がゆきちゃんとのデートを負担に思うわけないだろ? 俺だって楽しみにしてたんだから」
 そう、そんなことは絶対にない。
 昨日ゆきちゃんが言った台詞じゃないけど、俺がゆきちゃんと一緒にいることを負担に思うなんてこと、天地がひっくり返ったってあり得ないんだから。
「……うんっ」
 花のような笑顔で、ゆきちゃんは頷いた。

 

 ――ゆきちゃんとの会話を志乃姉に聞かれてて、そこからもう一騒動あったのはまた別のお話。

07.07.21up

 


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