六月の終わり。梅雨の季節通り、今日は昼前頃からしとしとと雨が降り続いていた。
家を出るときはまだ曇り程度だったんだけど。
お陰で今日の部活は体育館の一部を借りての室内練習だ。勿論、バスケ部やバレー部の練習場所を奪うわけにはいかないので、ステージの上みたいな本当に隅っこしか使えない。
結局、これ以上練習するのは無理だって監督も判断したのか、早々に部活を切り上げることとなった。
けれどそこは遊びたい盛りの高校生、このまま大人しく帰るのもなんなので、みんなでファミレスにでも寄っていこうって話になった。頼むのはみんな揃って軽食にドリンクバー。昼のピークもとっくに過ぎて、尚かつ夕飯時にはまだまだ早い。店員も暇してるような時間帯だ。雨が降ってることもあって、俺たち以外に客は殆どいなかった。
そのためか、誰一人として遠慮することなく大声で会話している。
正直、嫌な客だとは思う。けど、他に客がいないんだから仕方がない。遠慮する相手がいないんだから。……ってワケで、俺も一緒になって騒いでたりする。
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2/4 Etude IV
俺が座っているのは窓際の席だ。すぐ後ろの窓硝子を雨粒が叩く音が良く聞こえる。
「でさ、次の日曜って確かオフだったじゃん?
コーラのグラス片手に
「そうだな……」
来週がオフだってことは、まだゆきちゃんには言ってない。
ゆきちゃんとデートしたいってのはあるけど……。最近、秀司や
「久し振りにどっか行くか」
「ああ、誰かさんの所為で久し振りにな」
「う……」
秀司がジト目でこちらを見てくる。
そりゃ、確かに俺の所為なんだろうけどさ。
けど、俺にも俺の人付き合いってもんがあるわけで。正直言うと、秀司とかよりそっちの方が優先度高かったりするのだ。
昔、『彼女出来たからって付き合い悪くなる奴いるよな。ああいうのって友達甲斐ないと思わないか?』なんて秀司とふざけて言い合ってたのを思い出す。……正に今の俺のことだった。
ちょっと自己嫌悪。
「そ、それはともかく! 遊びに行くって言ったって、具体的にどこ行くんだ? この時期じゃろくな映画もやってないし、都合良く日曜に晴れてくれるとも限らないだろ。秀司、何かいい案でもあるのか?」
「そうだな……」
グラスに差したストローでコーラを吸い込みながら、秀司は腕を組んだ。ずずず、という音が止むと、今度はぽこぽこと茶色い水面に大きな泡が浮かぶ。……ゆきちゃんでもしないぞ、こんな子供っぽいこと。
内心で呆れながら、俺はコーヒーの入ったカップを傾けた。
「水族館とかどうだ?」
ストローをくわえたまま秀司が言った。
秀司の言う水族館は、俺の家から電車で十五分程行ったところにある。あまり大きな水族館ではないけど、この辺りじゃ有数の娯楽施設の一つだった。
そういえば、ゆきちゃんと水族館に行ってみるってのもいいかもしれない。時期によってはイベントだって何かしらやってるだろうし。ゆきちゃんは年の割に――って言ったらかなり失礼だけど――可愛いものとか好きだし、それなりに楽しめるだろう。
「水族館か……」
いいかもしれない。
俺とゆきちゃんの場合を抜きにしても、水族館は家族連れやカップルには人気のデートスポットだ。――デートスポット?
「却下だ、却下」
「なんでだよ」
すぐさま秀司が反論してくる。溜息を一つ零して、俺は答えた。
「何が悲しくて俺達三人で水族館みたいなデートスポット行かなきゃなんないんだよ。想像してみろ、ヘタすると物凄く間抜けな光景だから」
ふむ、と呟いて秀司はコーラを吸い込みながら目を瞑った。
やがて目を開くと、溜息でも吐いたのか、またぽこぽことあぶくが浮いてきた。
「……なんか惨めだな、俺達」
「だろ?」
一人の女の子にくっついてる男二人っていうのは、見ていて仄かな哀愁を誘う。真昼はともかくとして、俺達二人にとっては決して面白いことにはならないだろう。ショッピングとかならまだしも、水族館みたいないかにもなデートスポットに三人で行きたいとは思えない。
昔はそうでもなかったんだろうけど。高校生にもなると、色々と変わってくるのだ。
「けどよ、実際問題どうすんだよ。なんかのイベント行こうったって、今更チケット取ったり出来ねえだろ」空になったグラス片手に立ち上がりながら、秀司は言う。「ヒロ、お前は何かいい案とかあるのか?」
「そう言われてもな……」
思い付かない。それが正直な感想だった。
だろ? と秀司は得意気に言うと、ドリンクバーへと向かった。途中で他のテーブルから「ついでに俺のも」と幾つもグラスを押し付けられている。その後ろ姿を見送って、俺はコーヒーカップをソーサーの上に下ろした。
椅子の背もたれに体を預けて、天井を見上げる。エンボス加工の生地みたいに、四角い模様が幾つも並んでいた。雨の音に混じって、時折店員を呼ぶボタンの音が聞こえてくる。
しばらくして、秀司が戻ってきた。グラスの中には毒々しい緑色のメロンソーダ。
「で、だ」
壁際のソファに座るなり、秀司は口を開いた。それにつられて、視線を戻す。
「なんか思い付いたか?」
「……お前、いきなりそれか」
戻ってきて開口一番の台詞がこれとは。誰かさんに通じるマイペースだった。
微温まったコーヒーを口にしてから、溜息を一つ。カップの中は空になっていた。
「ま、いいけど。……ちょっと思ったんだけど、俺たちだけで勝手に決めたらまずくないか? 真昼は真昼で予定とかあるかもしれないし。俺たちがオフだからって、真昼までオフとは限らないだろ?」
「矢木って何部だっけ?」
「バスケ部。中学で家庭科はほぼ極めたんで、高校では大人しく勧誘に乗っかったんだとさ」
真昼の家事の腕前は専業主婦も真っ青なレベルだ。料理を作らせれば少ない予算でおいしく作るし、掃除をさせれば隅までピカピカ、洗濯をさせれば染み一つなく洗い上げる。俺も家事の腕はそれなりだって自負はあるけど、真昼に比べたら足許にも届かない。何しろ相手はお師匠様、目指すべき目標なのだ。
……それはそれで嫌な話ではあるけど。
「とにかく、あいつの予定とか行きたいトコとか聞いてから考えようぜ」
「それもそうだな」
そして何より、
「……俺たちが今何を決めたところで、真昼の言葉一つで全部パーなんだから」
「……それもそうだな」
俺たち三人の中では、真昼の力が一番強い。ペンは剣よりも強し、とか言うけど、最後は権が一番強いのだ。それでもって、その権力というのは真昼に集中しているわけだった。
……微妙に憂鬱になった。
コーヒーカップを片手に、ドリンクバーに向かうために立ち上がる。そのときだった。
窓の外に視線を向けたのは、本当になんとなくだった。雨脚の強さを見てみよう、とかって思ったのかもしれない。だから、その姿を見付けたのは本当に偶然。丁度今のタイミングで立ち上がらなかったら見逃していたに違いない。……偶然に、心の底から感謝した。
溜息を一つ零して、内心に湧き上がっていた怒りや苛立ちといった感情をやり過ごす。
ティーカップをテーブルに置いて、俺は言った。
「悪い、俺もう帰るわ」
「は? なんでだよ、いきなり」
隣に座っていたチームメイトが驚いたように言う。
「そろそろ帰らないと、スーパーのタイムサービスに乗り遅れるんだよ。雨の日はポイント二倍だし、おばちゃん組が少ないから、狙い目なんだ」
俺たちのアパートの近所にあるスーパーは、五百円ごとに一ポイントが加算されて、二十ポイント溜まると五百円分のお買い物券がもれなく進呈される。たかが五百円と侮るなかれ、その気になれば一日分の食費に相当するのだ。
と、いうわけで、これを逃す手はない。
「秀司、明日五十円な」
五百円玉をテーブルに置いて、他のテーブルの連中に挨拶しながら、俺は店の出口へと向かった。
傘を差し、アスファルトに薄く張った水たまりを跳ねさせながら、雨の中を走る。
大きなエナメルバッグを持っている上に、片手で傘を差している所為で、ひどく走りづらい。水たまりだろうとお構いなしに走った所為で、ズボンの裾が濡れていた。靴は中まで水浸しだ。一歩足を踏み出すたびに、ぐちゃぐちゃという不快な感触が足許から広がってくる。
けど、今はそんなのどうでもいい。それよりももっと大事なことがある。
全力で駆け、擦れ違う人とぶつかりそうになりながら角を折れたところで、ようやくその姿を見付けた。
「ゆ……
鞄を頭上に掲げながら走るその背中に呼び掛ける。
相模先生ことゆきちゃんは、俺の声に驚いたように振り返った。
「ヒロくん!?」
外でそれはまずいだろ……。
慌ててその隣に並び、頭の上に傘を差し出してやる。
「ありがと、ヒロくん」
「ヒロくん禁止」
「む」
自分の決まり文句である『ゆきちゃん禁止』を真似されたのが気に障ったのか、ゆきちゃんは頬を膨らませた。見慣れたその姿に苦笑しながら、俺はゆきちゃんの名前を呼んだ。
「ゆ……相模先生」
「何よ」
「……いや、そこでふて腐れるのはどうよ」
今回の非は全面的にゆきちゃんにある。俺は悪くない。
今更周囲を確認して、思わず息を吐く。幸い、周囲にウチの学校の生徒の姿はなかった。
「TPOは弁えようぜ。ここ、学校と駅の間なんだからな。家みたいに接してるの誰かに見られたらどうするつもりだよ」
この場合は「聞かれる」かもしれないけど。
もし見つかったら、最悪で俺は退学、ゆきちゃんは免職だ。そうなるのだけは、絶対に避けなくてはならない。ゆきちゃんのことは本当に好きだし、そりゃずっと一緒にいられたらいいとは思ってるけど、だからって周囲に明かしていい関係じゃないってのは間違いないのだ。
……道ならぬ恋、って言葉にすれば格好いいけど、やってることは命綱もネットも棒もなしで綱渡りしてるのと同じだ。下手したら地獄を見ることになる辺りとか。
「今度からは気を付けるように」
「はーい」
気のない返事をしながら、ゆきちゃんは俺の顔を覗き込んでくる。長いブラウンの髪はしっとりと濡れていて、グレーの女性用スーツの肩は黒く変色している。走った所為で仄かに上気した頬に髪が張り付いていて、そこはかとなく色っぽい。
「こういうのはいいの?」
悪戯っぽく微笑みながら、ゆきちゃんは言う。
「こういうのって?」
俺が訊ね返すと、
「あ・い・あ・い・が・さ」
「っ――!?」
わざわざ一音一音はっきりと区切って、ゆきちゃんは子供みたいな笑顔で言った。
心臓が飛び跳ねる。一気に顔が熱くなって、頭の奥で血管がどくどくと鳴り響く。
慌てて周りを見回す。幸い、人影はなかった。
「ゆ、ゆきちゃん――」
「ゆきちゃん禁止」
しー、と人差し指を自分の唇に当てて、くすくすとゆきちゃんは微笑する。
――や、やられた……!
ゆきちゃんは俺に比べて、この手の恋人っぽいというかカップルっぽいことに抵抗がなかったりする。つい二ヶ月前は、デートってだけで大騒ぎしてたっていうのに、あのキスの一件以来、やけに積極的になってしまった。
……まあ、男としては嬉しくないはずがないんだけど。ちょっと複雑な俺だった。
「これでも被ってろっ」
真っ赤になってるのが想像出来る顔を背けて、バッグの中からスポーツタオルを取り出し、ゆきちゃんの頭に押し付ける。
「きゃっ!? ちょ、ちょっと、ヒロくんってばっ!」
「ヒロくん禁止!」
今日は部活がなかったから、タオルは勿論未使用のものだ。そのタオルで、わしわしとゆきちゃんの頭を拭ってやる。
「か、髪の毛乱れちゃうってば!」
「知るかっ」
もう殆どヤケクソだった。
正直、照れ隠しになったかどうかさえ怪しかったけれど。
それから、駅の手前までは相合い傘で向かい、人通りが増えてきた辺りでゆきちゃんと分かれた。
電車は一つ隣の車両に乗ることにした。尤も、車両を繋ぐドアの小窓を通してお互いの顔を見たりしてたんだけど。時々頬が緩んでしまったのは仕方がない。ゆきちゃんの顔を見てると、それだけで幸せになれるのだ。ゆきちゃんも同じように笑ってたし、お互い様だろう。
……周囲の視線のことは考えないことにする。考えたら死にたくなるだろうから。
そして今。電車を降りた俺たちは、相合い傘でアパートまでの道を歩いていた。傘を差す俺の右腕には、そっとゆきちゃんの左腕が絡められている。
勿論未だに恥ずかしいけれど、それでもさっきまでよりは随分と慣れたと思う。少なくとも、顔の赤みは引いてくれたはずだった。
湿り気を帯びた夕方の空気はどこかひんやりとしていて、火照った肌に心地良い。
「てか、どうして傘持ってきてないんだよ。今朝、『午後からは雨らしいから傘忘れるなよ』って念を押したはずだろ」
「……ごめんなさい」
「まったく……」
しゅんと項垂れてしまったゆきちゃんを横目に、溜息を吐く。
正直なところ、ゆきちゃんが傘を忘れるかもしれないっていう可能性は頭の中にあった。ちゃんと玄関のわかりやすいところに置いておいたつもりではあったけど、ものを忘れるときっていうのは、準備してあったって忘れるものだし。
……何より、ゆきちゃんは根っからの駄目人間だから。
このくらいのミスは序の口だ。
「ま、そんなこともあろうかと思って、俺は常に折りたたみ傘もバッグの中に入れてあるんだけど――いらないか」
途中でゆきちゃんに睨まれた。
ある意味、秀司や真昼みたいな睨み方よりも、ゆきちゃんの涙目で見上げてくる睨み方の方がずっと迫力がある。
惚れた弱みってヤツで、こう睨まれてしまってはゆきちゃんに逆らえない。
まあ、俺としても今更別々の傘で帰ろうとは思わないけど。
「そうだ、スーパー寄っていっていい? もうすぐタイムサービスなんだ。ゆきちゃんが一緒なら個数限定の特売品沢山買えるし」
確か、今日は卵が安かったはず。お一人様一パック限りだとしても、二人でなら二つ買える。この差は大きい。お一人様二パックとかだと助かるんだけど。卵は、賞味期限にさえ気を付ければ幾らあっても困らない。
「安売りでいいのがあったら、今晩は奮発してみるよ」
「ほんとっ?」
「ああ」
子供みたいにゆきちゃんは目を輝かせる。ゆきちゃんが小さな頃はお母さんも大変だったんだろうなあ――なんて、しみじみと思う。尤も、食事で簡単に機嫌が取れるから逆に楽だったのかもしれないけど。
「メニューは何がいい?」
「えっとね……ヒロくんが作ってくれるならなんでもいいよ」
「……そりゃ嬉しいことで」
気恥ずかしくなって、視線を逸らす。それを見透かしてか、ゆきちゃんは俺の腕に自分の腕を絡ませるように身を寄せてきた。
ゆきちゃんの体温とか柔らかさとか匂いとか、そういうのを感じてしまって、ますます顔が熱くなってくる。やっと引いてくれた熱は、ぶり返すどころかさらに高くなってリバウンドしていた。
「そ、そんなにくっつく必要ないだろ……!」
上擦った、時折ひっくり返った声で言う。すると、ゆきちゃんはますます体を密着させてくる。
「駄目よ、ヒロくん。ちゃんとくっつかないと濡れちゃうもの。肩、冷たいでしょ」
「う……」
ビニール傘っていうのは、元々一人で使うようにとしか想定されていない。だから、二人で一つの傘を使おうとすれば、当然はみ出してしまうわけで。これ以上ゆきちゃんに濡れさせるわけにもいかず、俺の左肩は思いっ切り雨に打たれていた。
こういうとき、防水効果の高いエナメルバッグで良かったなー、なんて思ったりする。
「ほら、ヒロくんももっと寄って。風邪ひいたりしたら大変でしょ」
「わかったよ……」
もう、どうにでもしてくれ……。
既に周囲の目を気にする余裕もなく、俺は半歩分体を右に寄せた。
「えへへ」
ゆきちゃんはだらしなく笑う。こういう笑顔を見てると、とても俺より七つも年上には見えない。
……むしろ、中身は俺よりも年下だったりするんじゃなかろうか。
ここで、まさかな、なんて感想が浮かばないあたり、ゆきちゃんの駄目人間っぷりを如実に表しているように思う。
「ヒロくん、何か失礼なこと考えてない?」
「……いえ」
相変わらず鋭かった。
スーパーに入ってからも、ゆきちゃんは決して俺から離れようとはしなかった。顔見知りになった近所のおばちゃんたちの、微笑ましいものを見るような視線が痛い。当然というべきか、ゆきちゃんは全く気にしてなかったみたいだけど。
俺は愛想笑いを返すことしか出来なかった。
「……ゆきちゃん」
「なぁに?」
何故だか甘ったるい声でゆきちゃんは返してくる。視線を気にしてなかったのではなく、そもそも意識の外だったらしい。
「流石に恥ずかしいから、ちょっとだけ離れてくれると助かるんだけど――」
睨まれた。
「いや、手繋ぐくらいなら勿論大歓迎だか――」
さらに睨まれた。
「……なんでもないです」
「よろしい」
満足げに言って、ゆきちゃんはさらに強く腕にしがみついてきた。
二の腕に柔らかい感触が当たってるんですけど。しかも、思ってたよりボリュームがあったり――って、何考えてんだ、俺は。……そりゃ、俺も健全な男子高校生なので、嬉しくないって言ったら嘘になるけど。
……ちょっと自己嫌悪。
「どうかしたの?」
「いや、何も……」
今はゆきちゃんの子供みたいに無垢な視線が痛い。そりゃもう、おばちゃんたちの視線なんかよりもずっと。
「ゆきちゃん」
「ん?」
「今夜はリクエストなんでも聞くから。……勿論限度はあるけど」
取り敢えず、俺の財布の中身が許す限り、今夜だけはゆきちゃんの好きなメニューにしてやろう。それが、ゆきちゃんに対して邪な感情を抱いた俺に対する罰だ。
尤も、世間の恋人同士ってやつはもっと色々やってるのかもしれないけど――って、何考えてんだ、俺は。
ぶんぶんと頭を振って、頭の中に浮かんだ考えを振り払う。
不思議そうな表情を浮かべるゆきちゃんに「なんでもない」と笑みを返して、
「それより、夕飯何食べたい? さっきも言った通り、ゆきちゃんの好きなもの作るから」
「そうね……」
んー、と声を漏らしながら、ゆきちゃんは視線を少しだけ持ち上げた。
それを横目に見ながら、安売りの人参を篭の中に放り込む。その隣に置いてあった玉葱も。
雨の日は、客足が遠のく。ポイント二倍というサービスがあっても、雨の中外に出るのは億劫だ。俺だって、学校がなかったら家で過ごしているだろう。タイムサービスの時間帯が迫っているにもかかわらず、主婦の皆さんがいないお陰で、今日はかなり余裕を持って買い物をすることが出来そうだった。
雨が好きなわけではないし、梅雨はむしろ鬱陶しいくらいだけど、こういうときだけは梅雨もいいものだと思う。
我ながら現金だ。
「リクエスト決まった?」
肉のショーケースに落としていた視線をゆきちゃんに向けながら訊ねる。
「ええ。今夜はハンバーグにしましょ」
「了解」
この時間からなら、デミグラスソースを作るところから始められそうだ。少し多めに作って、明日以降も使い回したりも出来る。カビが生えないように注意しなきゃいけないけど。
牛挽肉を手に取りながら、俺はハンバーグ以外のメニューも考え始めるのだった。
夕飯の後。小さなソファに二人並んで座りながら、俺はテレビを見ていた。
ちなみに本日のメニューはハンバーグに温野菜のソテー、キャベツとベーコンのコンソメスープ、ガーリックライス。ハンバーグにはデミグラスソースと和風ソースとを付けてみた。
リクエスト通りの夕飯にゆきちゃんは終始ご満悦で、作った俺としても、あそこまでうまそうに食べてもらっては嬉しくないはずがない。
今日の夕飯は大成功だったと言っていいだろう。
……その後の、現状さえなければ。
俺はテレビを見ていた。――一人で。
横に視線を投げ掛けてみる。そこでは、ゆきちゃんが上気した顔で寝息を立てていた。
続いて目の前。俺たちの足許に一つ、テーブルの上に二つ、都合三つの空き缶が転がっている。そして、四つ目の缶がゆきちゃんの手の中にあった。
そっとその缶を取ってみる。手に力は入っておらず、簡単に缶はゆきちゃんの手から抜けた。ちなみに、缶の中は殆ど空になっていた。
缶ビール四本。いつも通りの許容量オーバー。
……そんなこんなで、いつも通りゆきちゃんは眠ってしまったわけだった。
「なんだかなあ……」
思わず溜息を吐きながら、テレビのリモコンを手に取った。適当にチャンネルを変えてみるが、やっているのはどれも似たようなドラマやバラエティばかり。もう一度溜息を吐きながら、適当なバラエティで固定した。来月からの新番組の出演者同士でクイズに答える番組だ。
ソファの肘掛けに頬杖を突いて、テレビを眺める。
肩に掛かるゆきちゃんの重みが心地良い。規則的な寝息。よほど熟睡しているのか、殆ど身動ぎ一つしない。
部屋着のシャツを通して体温が伝わってくる。最近は随分と温かくなってきたので、俺もゆきちゃんも部屋着はかなり薄手だ。その所為か、ゆきちゃんの肌の感触まで直に伝わってきたりして、心臓がうるさいくらいだった。最近は少し慣れてきたとはいえ、こうも明け透けだと、少しばかり俺としても困る。
……恋人同士なんだから、今更って気もするけど。
ゆきちゃんの頭に手を置いてみる。ゆきちゃんの髪は俺なんかのとは違って柔らかくて、つやつやしていて、触っているだけで気持ちいい。ついつい、指で髪を梳いてみたりして。
「ん、ぅ……」
流石に調子に乗りすぎたのか、呻くような声を漏らして、肩に掛かってくるゆきちゃんの重みが増した。
恐る恐る顔を覗き込んでみると、何故だかやけに幸せそうに笑っている。
これは、別に続けてもいいってことなんだろうか。
眠っているとはいえ、ゆきちゃんは微笑んでるし、さっきまでより俺に寄り掛かってきてくれてるし。勝手にゆきちゃんの寝顔や寝相をオーケーサインだと決めつけると、俺は再びゆきちゃんの頭をそっと撫で始めた。
「ふふっ……」
眠りながら、ゆきちゃんは笑みを零した。
「……なんだかなあ……」
さっきも呟いたフレーズを、もう一度呟いてみる。
なんでこの人はこんな無防備なのか。しかも、なんでこの人はこんな幸せそうなのか。男としてはちょっと悲しいような、嬉しいような。
少しは恋人らしくなってきたと思ったら、結局前と同じだったり。
今の俺たちって、客観的に見たら恋人同士っていうよりも親と子供みたいなもんだったりするんじゃないだろうか。もしくは手の掛かる姉と世話焼きの弟。……なんか、俺のポジションは昔と全く変わってない気がしたりするんですけど。
ふう、と一つ吐息して、テレビの電源を消すと、ゆきちゃんを起こさないよう、その体を抱きかかえた。
もう何度も抱えた、けれど毎回あまりの軽さにびっくりする。
足で寝室の扉を開けると、もしものときのために――そのもしもの頻度がかなり高かったりするんだけど――敷いて置いた布団にゆきちゃんを横たえ、布団を掛けてやる。
「おやすみ、ゆきちゃん」
「んぅ……」
おやすみ、という声の代わりに、小さな声が返ってくる。それに苦笑して、タオルケットを片手に俺は寝室を後にした。
ソファの上に横たわる。
「おやすみ、ゆきちゃん」
もう一度呟いて、俺は目を瞑った。
俺とゆきちゃんはお隣さん同士で生徒と教師で。そして、恋人同士だ。
世間一般の恋人同士らしくなるには、もう少し練習が必要かもしれないけれど――。
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